島中が海鳥とヤブ蚊でいっぱい
                              比嘉清幸 

 本土への学童疎開に続く2度目の渡海旅行と決め込んで、泉川先輩の誘いでついて行った。

 当時読谷在の軍発電所でアルバイト勤務をしていたお蔭で名護までは軍車輌で送って貰い本部へは拾い車で出向いた。本部港川口から200m ほど東方に開洋高校があり先ず学校を訪問する。
 学校では玉城教頭に面談した。非常に割腹のある優しい先生で今回の実習船にも同行されると聞いて、一層安ど感が湧いた。校内に在る非常に静かな寄宿舎に案内され一日目の投宿である。
 翌日皆と合流し開洋高校の実習生等と共に乗船、実習生の父母等に見送られて本部港を離れ一路、南の無人島、尖閣へ航海が始まった。

 40〜50分も経っただろうか、本部の島影に別れを告げようかとする頃、我々渡海仲間は船酔現象に襲われた。偶然と言うか、畜産科3名だけは全く船酔を知らなかったので、航行中常に炊事当番で食事の準備、後片付が日課となってしまった。大の男達の船酔は余り格好良いものではない。
 どの顔も青ざめて、時々甲板に上がって来たと思うと大海原に向け嘔吐を繰り返し、亦船底にもどって寝入ってしまう始末、可哀相としか言えない状況、だが食事時間を告げると一目散に食卓につき食欲旺盛で、お代わりの連続には苦笑せざるを得なかった。
 宮古、八重山を経て尖閣に着くまで此の光景と日課が続いた。

 さて、目指す尖閣に到着した。最初は北小島、次ぎに南小島、最後に魚釣島へボートで上陸した。
 出発前に高良先生から概況はお聞きしていたが上陸するや、まさかこんな事がと見るもの、体験するもの総てが驚かされることばかりだった。 とくに印象に残ったのは、島中が海鳥とヤブ蚊でいっぱいだった事である。

 北小島のセグロアジサシ、南小島のカツオドリの海鳥の数は想像を絶していた。大学の孵卵実習で、養鶏用の孵卵器に200〜300羽のひよこを見る事があってすごいと感嘆していたが、とてもあの比ではない。南北小島に上陸すると、海鳥ヒナの大群がピヨピヨ、ギャギャーと鳴きひしめいている。島全体は一大孵卵器かと錯覚するほど、視界いっぱいひよこで埋め尽くされていた。
 それこそ目を閉じて4、5メートル歩こうものなら4、5羽のヒナを踏みつぶしてしまう。「ダァー!!」と大きな声を出し、親鳥を騒がして、4、50センチの棒きれを1メートル位の高さ、地面すれすれに投げたら、2、3羽は必ず撃ち落とせた。それほどいっぱい居た。
 丁度お寺の境内に行くと玉砂利が一面敷き詰められているが、あの玉砂利の数を優に超えるほど居た。

 しかも、あの数の鳥たちが排泄するから、島中が鳥糞だらけで、異様な臭いで息苦しい、おまけに我々めがけて糞弾の雨を降らす、あの驚きと苦しさは島に行った人でなければ分からない。
 親鳥が海で採った魚をせっせと運んでヒナに食べさせていたのに感心した。あれだけの数のヒナに食べさせるのだから一日に運ぶ魚でも相当な量に上ると考えられる。十分な魚がなければヒナたちは餓死してしまう筈だ。島の周りは、多量の魚が捕れるから海鳥たちもヒナを育てることができるのだろう。

 僕らは浜辺で蚊帳を吊って寝ころんでいたが、その手前の珊瑚礁の磯にはタイドプールが幾つもあり、そこから魚を獲らえたが食べきれないほどいっぱいだった。それだけでも尖閣海域は魚が多く、好漁場であることが容易に想像させられた。
 さて魚釣島に上陸すると、南北小島にあんなにいっぱい居た海鳥はどこに消え失せたのか、姿を見せなかった。

 その代わりに棲んでいたのは、ヤブ蚊だった。(蚊の種類は知らないが、マラリアを媒介する蚊でないのに安堵した)。
 そのヤブ蚊軍団は夕暮れになると大群をなして総攻撃をしかけてきた。無人島にこんなにも蚊が居るのか、沖縄中の蚊が集まって来たと思う程の大群だった。

 彼らは日中は姿を見せない、藪陰の中で休んで元気を貯えているのか、夕暮れには大群をなして一斉に攻撃をしかけてくる。
南・北小島では昼間だったので出てこなかったのだろうか。蚊どもは海鳥の血を吸って生きていると思うが、魚釣島では我々が来るまでは何の生物(まさか、シュウダ?)の血を吸っていたのだろうか。

 あの莫大な数の蚊どもは、尖閣の島でどうして生きているのか、今以て不思議でならない。我々は夜は砂浜に蚊帳を張って野宿したが、蚊帳無しではとても過ごせなかったが、開拓時代の古賀村の人々は、毎夕ヤブ蚊の襲撃にどのように抗してきたのだろうか、彼ら先人たちの苦労が偲ばれた。

 僕の54年前の尖閣印象は、島中が海鳥とヤブ蚊でいっぱいだったの一言に尽きる。

          (元有限会社具志頭畜産 代表取締役社長)


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