警告板設置の思い出 比嘉健次 まえがき 元琉球大学学長高良鉄夫博士のご主導による「尖閣列島学術調査団の資料集」が近々刊行されることを承り、同島に係わった者としてお喜び申し上げます。 尖閣列島における「学術調査」及び「警告板設置」は、米国施政権下における実効的支配の象徴といえましよう。 また、調査団が学術調査の傍ら同列島海域における台湾漁民の不法操漁、不法上陸などの態様をマスコミを通して公表されたことは、領有権侵害行為に対する「警鐘」であり、警告板設置の原動力となったことは間違いないと思います。 このような経緯に鑑み、今回編集部から「警告板設置」の寄稿を依頼されたときは、私の体験でもお役に立てばと、喜んでお引き受けした次第です。敬愛する高良先生の本資料集に掲載されるのは光栄の至りです。 当時の写真と資料を元に、「警告板設置の思い出」と題して、筆を進めたいと思います。 出張命令に緊張 1970(昭和45)年7月初旬、私はいつものように、職場の琉球政府出入管理庁に出勤した。 同庁は琉球列島米国民政府(USCAR)の予算で那覇市与儀の国有地に建設された単独庁舎で、民政府公安局の直接の管理下に置かれていた。 警備課長席に着くや庁長室に呼ばれた。 大城実庁長は、海軍兵学校出身のばりばりであった。 おもむろに口を開き、「民政府の資金援助で、尖閣列島に不法入域を防止するための警告板を設置することになっているが、作業現場の監督と違反調査を兼ねて警備課長を派遣することになった。出発までに体調を整えておくように」とのことを言われた。 当時、私は44歳の働き盛りの年代であったので、躊躇なく承諾し、やりがいのある仕事を与えてくださったことに感謝した。 戦場に赴く心境 ところで、「尖閣列島」と聞いたとき、15年前の「第三清徳丸事件」が心をよぎった。1955(昭和30)年、魚釣島領海内で国籍不明のジャンク船2隻に銃撃され、9名の乗組員中3名が行方不明となった。琉球住民を震撼させた事件である。 物騒な所へ赴くからにはそれ相当の覚悟がいることを自分に言い聞かせた。早速旅支度に取りかかった。 まず、カメラ店で小型携帯カメラを購入した。作業現場や不法入域事犯の証拠写真の撮影に必要だからである。 不法入域事犯を取調べる際の制服・制帽、強い直射日光を避けるための麦藁帽子や足下を保護するための編上靴等を準備した。いわば、戦場へ向かう兵士の完全武装といった出で立ちである。 7月6日付けで、6泊7日の正式な出張命令が発令された。 警告板の偉容に心打たれる 7月7日、同日19時に尖閣列島向け石垣を出港予定の傭船第三白洋丸に乗船するため石垣へ飛んだ。しかし、海上注意警報発令中につき明日に出港延期となった。寒冷前線通過の影響だという。 同日午後、同じく出張命令を受けた当庁八重山出張所長伊佐義昭と一緒に琉球政府建設局八重山建設事務所を訪ねた。 知念三郎所長、田本信一田本建設株式会社社長、傭船第三白洋丸船長ら、工事関係者と会合を開き、警告板の設置場所、輸送手段、作業順序、作業班の編成等必要事項について最終調整を行った。 申し遅れたが、今回、檜舞台の主役をつとめる「警告板」様に初めてお目にかかった。その偉容さに心を打たれた。 警告板の設計は、八重山建設事務所の仲本技手が担当し、指名競争入札で田本建設が単価158ドル54セントで落札、施工した。 7枚の警告板は、運搬の際の損傷を防ぐため、木の筏でしっかりと梱包されていた。 屈強な船員を集める 会合の席で人員や資材を運ぶ傭船のことが話題となった。 尖閣列島のような厳しい自然環境下で警告板の設置工事を遂行するには、同海域を熟知し、かつ屈強な船員の獲得が必須条件である。そこで、白羽の矢が立ったのが、東シナ海の大海原で「カジキ突き漁」を専門にしている与那国の大型漁船第三白洋丸(乗員14人・150トン)である。 船主との間に2,500ドルで傭船契約が締結された。 なお、傭船料については、本項に掲載されている概算見積もりより、予算は大幅に圧縮された経緯もある。 また、今回工事現場や不法操漁取材のため乗船申し込みをした報道関係者4名が、出港間際になって乗船申し込みをキャンセルするという場面が見られた。 大荒れの海域、設置作業は難渋続き 7月8日22時、出港準備を完了した第三白洋丸は、第一目的地の「魚釣島」向け石垣港を離れた。 真夜中、嵐に遭遇し船体が25度にローリングを繰り返し、その状態が3時間も続いたので、ひどい船酔をしたことを覚えている。 7月9日、夜が白白と明けてきた頃、船は魚釣島の南岸沖に到着した。そこには、「石垣市標柱」(石垣市字登野城2390番地)があり、その付近に警告板を設置するためである。 ところが、同海域は時化で波が高く、船の停泊やボートで上陸できる状態ではなく、万が一上陸を決行した場合、大きなリスクを伴うのは明らかである。そこで、船長は船を慎重に移動させ、2時間を費やしてやっと北岸に上陸可能な場所を探すことができた。 モーターボート船底に大穴 いよいよ作業開始である。本船に搭載してあるモーターボートを海面に降ろして、それに警告板と支柱を積み込んで北岸に接岸しようとした際、鋸状に鋭くとがった珊瑚礁で舟底に穴が空き、浸水さわぎが起こった。 警告板と支柱は、ロープで陸地に引き揚げ、災難を免れた。 “一難去ってまた一難”尖閣列島の自然環境の厳しさを実際に体験した作業班に緊張感が高まった。致命傷を負うたモーターボートの対応措置には、たまたま本船に搭載したエンジン付きくり舟(船内炊事に使う魚類を釣る目的で積んだもの)を利用し、資材を積載した救命ボートをロープで曳航して上陸地点へ輸送する方法がとられた。それが案外うまく行った。 警告板の運搬・陸揚げに一苦労 次は、重量が130キロもある警告板の陸揚げに一番労力と神経を要した。 北小島の場合は、南岸の海面から15メートルの岩上に陸揚げするのに11名、赤尾嶼の場合は、20メートルの岩上に陸揚げするのに14名の作業員が投入された。万が一、ロープが切れたり、手をすべらしたりすれば、警告板は海底のもくずと消えるからである。 また、足場の悪い凸凹の岩盤での警告板の運搬に8名が投入されるなど慎重を期した。 警告板の設置工事に従事した人には、それぞれ「思い出」があると思うが、私の場合は、警告板の設置ポイント(地点)の設定が第一の任務であるから、1968(昭和43)年9月3日付けの米国民政府民政官から琉球政府行政主席あての書簡で指摘された「台湾漁民がよく上陸し、人目を引く場所」を念頭に置き、八重山建設事務所の職員と一緒にポイント探しのため、未踏の島々を歩き廻ったのが一番印象として残っている。 想像以上だった領海侵犯 次に印象として残っているのは、想像以上に台湾人の領海侵犯が多いことである。 7月9日から11日までの3日間に、北小島と魚釣島の沖合いで操漁中の台湾省宜蘭県蘇澳南方船籍の漁船(金吉隆一三六号・金興隆七号・新興福・金泰財・親台福・金吉隆二二号)6隻と乗組員合計75人を現認、また、われわれ取締船を見て領海外へ遁走した船名未確認の台湾漁船8隻を発見した。 さらに、魚釣島の天然の岩風呂で水浴している9名の台湾漁夫を発見、取調べたところ金吉隆二二号の船員で、サンパン(孟宗竹で編んだ筏)で上陸したことが判明した。 これら9名に警告板を見せたところ、中国語の意味が通じ、上陸したことが犯罪になることを理解した。それが他の船員に伝わることで、大きな効果が期待できる。 さらに、7月11日、第6目的地の黄尾嶼へ移動した時、北岸に打ち揚げられた難破船の解体作業をしている台湾労働者14名と沖合いに停泊している貨物船「大通号」を発見、作業責任者張雲蔚を取調べた結果、同月7日、大通号に乗船して基隆港を出港し、9日に同島に到着、解体作業に従事していたもので、琉球列島に入域するに必要な高等弁官の入域許可証および旅券を所持せず不法入域であることが判明した。 よって、「ここは米国が統治している琉球の領土である。琉球住民以外の人が入域するには、入域手続により入域許可証を取得する必要がある。すみやかに立ち去るように」と出域勧告を行った。 出入管理令で入域手続を定める では、「入域手続」は、どのように定められているか、その骨子を述べてみたい。 民政府布令第125号「琉球列島出入管理令」(1954年2月11日公布・2月15日施行)の条文によれば、「琉球列島に入域しようとする者は、規定の入域申請書(著者註:参考のために第1号様式を掲示する)を外交機関を通して高等弁務官に提出しなければならない。 但し、商用入域者の場合は、代表商社又は申請人個人でも直接提出することができる。処理の結果は、その受理した経路を経て通知される。入域申請が許可されると、6ケ月間有効の入域許可証が発給される。入域者は、指定出入港において出入管理官の上陸許可証印を受けなければならない。商用入域者とは、貿易、事業若しくは投資の活動を行おうとする一時訪問者である」とある。 台湾人労働者正規の手続きで入域 その2年前の1968年8月12日、民政府渉外局次長ロナルド・A・ゲイダックを団長とする調査団は、南小島に座礁したパナマ籍貨物船、「シルバーピーク号」の解体作業に従事している不法入域台湾人45名に対し、「入域手続をして解体作業に従事するよう」出域勧告をした。 その結果、解体作業に従事している台湾人労働者を雇用している会社から同労働者50名の入域手続きが行われ、同年8月30日に許可され、高等弁務官命で在台北米国大使館を通じて当該会社に通知された。 その際、台湾国境守備隊本部もその入域許可に同意して出国許可を認めている。 これらに対し台湾政府から抗議もなく、無条件で入域手続を認めた事は、尖閣列島が日本の領土であることになんら疑問を抱いていないことを証明したことになる。 一致団結で目的を達成 少し警告板の話から脱線したが、今回黄尾嶼でスクラップ収集作業に従事していた大通号に対し「出域勧告」したのは違反調査の成果といえよう。 警告板設置場所の政府の方針は、飛瀬を除く5島と2岩に各1本となっていたが、2岩(沖ノ南岩・沖ノ北岩)については、不可抗的事由(波浪が高い)により設置を断念、海鳥の卵採取や水浴などの目的で比較的多くの上陸が予測される「魚釣島」と「北小島」に各2本設置することにした。上記事情については、琉米両政府とも了解した。 以上の通り種々困難な出来事がありましたが、困難を克服して目的を達成することができたことは作業従事者の一致団結と旺盛なる責任感並びに関係各位のご支援およびご協力の賜物であり衷心より感謝申し上げます。 紙面の都合により、ほんの概略しか述べられなかったことをご容赦願います。なお、本著「各行政資料」の末尾に掲載した写真説明は警告板設置に関する出張復命書及び37年前の記憶によるものであることを念のため申し添えます。 おわり (元名古屋入国管理局警備課長) 文献top>> home>> |