尖閣諸島今昔
東シナ海に浮かぶ、未だ原始の島


注)沖縄世論に掲載されたものは編集されていますので、内容が若干訂正されています。ご了承下さい。

*尖閣諸島の地理


 いわゆる尖閣諸島は魚釣島 南小島 北小島 久場島 大正島 大小の島5島と 沖の北岩 沖の南岩 飛瀬 3個の岩礁を指す総称である。
 場所は、東シナ海にあり、一番大きい魚釣島まで沖縄本島より東へ410km、石垣島から北北西へ170km、台湾からは石垣島と同じく170km、 琉球列島対岸の中国大陸までは330kmの距離に位置する。勿論日本の国土である為、各島々には番地が振られており、
 現在は、魚釣島石垣市登野城2392番地3.82平方q
 南小島石垣市登野城2390番地0.35平方q 北小島石垣市登野城2391番地0.31平方q
 久場島石垣市登野城2393番地0.87平方q 大正島石垣市登野城2394番地0.81平方q
 となっている。

*尖閣諸島と古賀辰四郎氏

 1879年、廃藩置県により沖縄県となった頃。福岡出身の商人古賀辰四郎という人が那覇にやって来た。最初古賀氏は琉球列島近海に産する貝殻に目を付け、在阪の輸出問屋を営む兄と努力の末に販路を築き上げる。事業が拡大するにつれ1882年、海産の宝庫である八重山石垣島に支店(古賀商店)を置いた。氏が貝殻の本格的な海外輸出を始めたのは翌1883年のことである。
 石垣に在って古賀氏は不思議な無人島の噂を度々耳にした、その下りは高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」から、息子である古賀善次氏の発言を拝借したい。
〜・〜
 古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこう語っている。
「当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。」(略
〜・〜。
 1885年。古賀氏は「久場島」(魚釣島?)探検を敢行している。小船を航海用に艤装し人足を雇い、荒波を超えて目指すは尖閣諸島。苦労の末、上陸し調査をするに諸島周辺の魚族が極めて豊富なこと、海鳥の凄まじく群棲する島があることを確認、そこで無人島経営を思い立ったのだろうか。彼は那覇に帰って後、その事業のための土地貸与を沖縄県庁に出願した。
 氏の願いを受け県は内務省に国標建設を要請するが、中央政府側は沖縄県の廃藩置県時に清国と揉めたこと、問題の島嶼が冊封使の航路上(琉球―福州)に位置すること等を気にかけ「慎重に慎重を期さなければならない」「隣の清国(中国)との無用な揉め事は避けるべきである。」といった調子でなかなかゴーサインを出さなかったようだ。
 結局の所、古賀氏は明治政府の領土編入を待たずして列島開発に乗り出すこととなる。海岸近くの土地を開き、作業小屋を建て周りを防風の石垣囲で固め、そこでカツオブシの仮加工を主に海鳥の羽毛採取及び剥製作りと、無人島経営の始まりである。

*日本政府の領土編入

 古賀氏が無人島経営に着手して10年、その開発運営に苦心しながらも事業が軌道に乗り始めた1895年、沖縄県令が度々願い出ていた標杭建設が内閣の議題に上がる。閣議決定の末、日本国沖縄県八重山郡への編入が決定。ここに晴れて古賀辰四郎氏へ尖閣諸島貸与が承認される準備が整う。
 翌年、政府により30年の無償貸与を受けた古賀氏は鰹業、海鳥採取事業の更なる拡大、少し後になるがグアノ(鳥糞)採掘事業、等を本格的に開始する。作業に従事する労働者は季節ごとに集められ、従事する労働者の増加、作業場の拡大と共にそれを囲う石垣囲いもその縁辺を広げ、最盛期においては古賀村と呼ばれるほどの賑わいを見せた。
 のちの1909年、無人島開発における功績が明治政府に認められ、古賀氏は藍綬褒章を下賜されている。

*古賀辰四郎氏の死後、名実共に古賀氏の島々へ

 古賀氏が1918年に亡くなった後、その子息古賀善次氏は、父辰四郎氏の開拓事業を引き継ぎ、主に魚釣島と南小島でカツオブシ製造、海鳥の剥製等の事業を継続していた。
 1926年、古賀氏に30年無償貸与していた4島(魚釣島、南北両小島、久場島)の貸与期限が切れたために、政府はその後1年契約の有償貸与に切り換えるが、1932年、善次氏がこれら4島の払い下げを申請してきたので、有償での払い下げを承認。
 父辰四郎氏が無人島経営に乗り出して50年弱、尖閣諸島のうち4島は名実共に古賀氏所有の島々となる。

*第二次大戦の混乱、島は無人島に−

 日本経済新聞、昭和45年8月26日、古賀善次氏インタビュー「尖閣のあるじは私」から再び拝借する。
「〜しかし日中戦争がひっ迫してくるにつれて、沖縄の漁業もいろいろ規制されるようになりました。漁船の燃料に使う石油が入手できなくなってきたのです。そこで、昭和15年、ついに尖閣諸島での操業を撤収、石垣島にカツオブシ製造の本拠を移したのです。魚釣島の工場施設など、まあたいしたものはなかったが、そのまま残してきました。〜(後略。)」とある。
 物資統制による慢性的な燃料不足に陥っては、決断せざるを得なかったのだろう。尖閣諸島から引き払ったあとの善次氏は戦火が沖縄に近づくにつれ本土へ疎開し、終戦を迎えることになる。

*終戦、高良鉄夫氏の無人島探訪

 「尖閣のあるじ」である古賀善次氏不在のまま終戦を迎えた尖閣諸島魚釣島に、高良鉄夫氏が上陸したのは1950年のこと。幼少の頃、先人による記録と石垣島測候所所長岩崎卓爾氏とによって尖閣諸島の風土を伝え知り、高良氏はその内容に魅了されていたそうだ。
 実際に尖閣各島に渡島した氏は更に魅了否(高良氏曰く)とり憑かれ、1950〜1968年、18年の間に、都合5回に亘る尖閣諸島調査を敢行。▽
 高良氏が琉球大学学長に就任した1970年以降、尖閣諸島調査は同大学教授池原貞雄氏へと受け継がれていくことになる。

▽宣伝になって恐縮だが、先日刊行された「尖閣研究:高良学術調査団資料集」は調査の内容、報告等に詳しい。
興味のある方は一読をお勧めしたい。


*東シナ海油田の発表〜俄かに浮上した領土問題〜

 1968年10月、尖閣諸島を揺るがすことになる重大な調査が国連により実施された。日本、台湾、韓国の海洋専門家と国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に行われた東シナ海一帯の海底学術調査である。
 翌年の調査報告では東シナ海海底に大油田の可能性アリとの発表がなされ、尖閣諸島周辺海域もその範囲に含まれるとのことだった。
 次いで、この調査発表を受け名乗り上げたかのような格好で
 台湾(中華民国)中国(中華人民共和国)が、順に尖閣諸島の領有を宣言。
 中華民国政府外交部声明 1971年6月11日(内容略)
 中華人民共和国政府外交部声明 1971年12月30日(同上)
 そして今日に至るまで「棚上げだ」「友好だ、否毅然と対応するべきだ」「そもそも領土問題など存在しない所存・・」「固有の領土とは何事か−」等々問題解決の糸口も見つけられないまま閣僚や政治家の間でもさまざまな言説が飛び交う現状となった。
 資源が絡む領土問題は解決がややこしいらしい、長広舌したところで解決の助けになるわけでも無し。この項では、以下日本外務省の見解を以って説明ということにしたい。

外務省による、尖閣諸島の領有権についての基本見解

尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれています。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものです。なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです。また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえません。
注)外務省ウェブサイトより転載

*海底に眠る油田争奪戦

 前述のECAFE調査を受け、尖閣諸島周辺海域ではその下に眠る油井開発の権利を巡り激しい攻防が繰り広げられた。その攻防劇には地元沖縄は勿論のこと、日本本土及び外国資本、各国政府が登場し雑誌新聞等の紙面を飾り賑わせた。海底学術調査から騒動の収束までおおまかにではあるが、ざっと紹介したいと思う。
 「尖閣にどえらい油田が眠っているらしい・・」こんな噂が世間に話題となっていた1969年、2月5日、琉球政府通産局工業課にて、採掘権の申請書類(その数約5000件)を文字通り山積みにした男がいた。氏の名は大見謝恒寿、那覇で物産店を営む傍ら、琉球列島での油田探索に爾来30年身を投じてきた。争奪戦挑戦者第1号と言ったところか。
 少し遅れて同月17日、日本石油開発公団の担当者が来沖、同公団職員古堅総光氏名義で約7000件を申請、区域の殆どを大見謝氏のそれと重複させての申請、正に挑戦状であろう。そして2者の睨み合いが続く中、同年10月、第3の挑戦者新里景一氏が名乗りを上げる。
 同年12月の時点で大見謝古堅新里3者の申請件数は順に約5000、約7000、約6000件、しかもこの申請区域は互いに重複を含んでいる。申請の手数料(印紙代)だけでも1件14ドル。
 琉球政府は申請手数料の重複分を含めて思わぬ収入となったのでは無かろうか。
 翌1970年夏、台湾が国際石油資本ガルフ社に同海域の鉱区権を認可。日本政府並びに琉球政府共これに抗議するが、最終的には1971年4月米国務省報道官が「先ず当事者間の話し合いで解決を・・」と表明し、ガルフ社は撤退。以降大手石油資本は静観の構えを示すことになる。台湾の行動に中国も刺激されたのだろうか、この頃から中国共産党機関紙にも尖閣諸島に対する発言がなされ。前述した台湾、中国の尖閣諸島領有声明が出るに至って、油田問題は外交問題及び一つの中国問題にまでリンクする形となった。
 申請だけで14ドル、認可を受け登録となれば更なる資金が何倍も要ることになる。大手資本に静観されては試掘や採掘など夢のまた夢ではないか。
 琉球政府は起死回生の策として琉球政府と出願者ら出資で琉球石油開発KK設立を計画する。しかし資金面の問題や出願者と意見が調整できず。計画は頓挫。
 かくして膨大な出願申請と共に、眠れる油田は本土復帰を迎えることとなった。

*尖閣諸島の現況〜これからのこと

 最後に、尖閣諸島の現況並びにこれからの課題を挙げて終りにしたいと思う。

 魚釣島:
 最近では尖閣諸島と呼ぶ際には魚釣島を意味するようだ。尖閣諸島が領土問題の島となった70年代以降、台湾及び中国の活動団体がほぼ定期的に同島周辺を抗議活動で訪れている為だろうか。
 尚、1978年日本の活動団体が上陸した際、ひとつがいの山羊を放逐、繁殖の結果深刻な食害に見舞われ、現在はそれが緊急のものとなり生物学会や環境団体の間で懸念されている。

 南北両小島:
 両島共にほぼ禿岩の、海鳥の島である。沖縄の本土復帰以前は台湾漁夫の不法入国(上陸)による濫獲が問題になったが、復帰以降〜現在まで海上保安庁第11管区が領海警備に就いていて、不法上陸や海鳥の濫獲等は行われていないようである。また1971年、アホウドリが小笠原諸島に続き、南小島にても再確認され、その17年後の1988年にアホウドリの営巣地を確認。小笠原諸島鳥島に続く繁殖地として今後が期待される。

 久場島、大正島:
 米軍によって射爆撃演習場に指定されている為、接近、上陸等は難しい。なんとかならないものだろうか。

 飛瀬 沖の北岩南岩:
 岩礁の為、略 

 尖閣諸島の所有権者について、魚釣島 南北両小島 久場島 を古賀氏から譲り受けた埼玉の実業家が所有。大正島及び3つの岩礁は日本国の国有地になっている。
 なお、現在民有地である 魚釣島、南北両小島、久場島の4島は日本政府が年間約3000万円程度で所有者から毎年借り上げているそうだ。
 このことから、現在尖閣諸島における実際の管理は日本政府に一任されていると考えて良いだろう。

*追記−領有権問題としての現況とその周辺−

 補足になるが、平成以降の各国及び活動団体の動きをもう少し具体的に紹介する。

1990年8月
 台湾の聖火リレーの乗せた抗議船2隻が魚釣島周辺の領海内に侵入する事件が発生。
1991年2月25日
 中華人民共和国領海法制定。魚釣島が自国領であると記載される。
1996年6月
 日本国国会で国連海洋法条約及び関連8法案が成立。尖閣諸島問題などが再び問題となる。
 同年9月には中国の抗議船が領海内に進入、活動家数名が海に飛び込み、香港の活動家一人が溺死している。
1997年5月
 現職国会議員であった西村真悟氏及び石原慎太郎氏らが、魚釣島上陸を計画。当日は西村氏と地元の仲間市議ら四人(石原氏除く▽)が上陸。視察及び国旗掲揚等の行為を行った。
 現職国会議員の上陸は初めてである。
▽この時に石原氏が上陸したと誤認されている方も多いようだが、実際に上陸したのは西村議員と仲  間議員である。勿論、当初は石原氏がチャーターしたクルーザーで共に上陸予定だった。が、急遽予定は変更され地元の漁船をチャーターして西村氏仲間氏他が乗船。石原氏は氏が借り受けた船にて西村氏らのサポートに回ったそうである。
2000年4月20日
 日本青年社、魚釣島に神社を建設。
2002年9月16日
 台湾前総統である李登輝氏が「尖閣諸島は日本の領土である、しかし古くから同海域で操業してきた台湾漁業者にも一定の権益を・・」等の内容を発言。物議を醸す。
2004年1月
 台湾当局が魚釣島を土地登記。
同年3月23日
 中国人活動家7名が巡視船の隙をつき魚釣島に上陸、沖縄県警がこれを逮捕。外交判断で7名の起訴は見送られ強制送還された。翌日にはこの問題を受け米国務省エレリ副報道官が「尖閣諸島は日米安保の範囲内」と表明。
 尚、前年に日本青年社が建てた神社はこの時中国人活動家によって破壊されている。
2005年2月
 以前に日本青年社が建てた灯台を政府が拾得物として所得、魚釣島灯台は日本国所有となり、その管理は政府に移管された。

以上拙文でありますが尖閣諸島の今昔についておおまかにでも理解頂けたら幸いです。

                                       
國吉真古(おわり)


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