※新納義馬先生インタビュー



新納義馬・琉球大学名誉教授。


新納氏は長年尖閣諸島調査、特に同諸島の植生に携わり、参加した調査は計6回に亘る。尖閣諸島調査の先駆である高良鉄夫氏から「魚釣島の村長さん」と呼ばれる程尖閣諸島に詳しい。

今回、尖閣諸島の風土、そして日本の活動家らが持ち込んだ、山羊による食害を受けている魚釣島の実状について、より具体的な話を伺う事が出来た。


※魚釣島におけるアホウドリと植生の相関

−尖閣諸島の中でも魚釣島と黄尾嶼(久場島)は古賀さんが開発して、一時期は人が住んでいた島ですが、両島の植生は人工がかなり入ったものですか、例えば魚釣島ですが「明治にアホウドリがいた頃はもう少し禿山だったのでは?」と言う人がいます。

新納:
「いや、僕はアホウドリがいた処は海岸近くだったと思います。島の斜面があれだけ茂ってれば、とてもじゃないけどそこまで禿げては無かったんじゃないですかね。それと(島の)周囲は砂が打ち上げられている処があって、サンゴ礁もあります。そういう低い所には、アホウドリはいただろうと思います。とにかく島の斜面はちょっと考え難いです。」

−島の植生を見るに、それほど人工が加わったわけではないと

新納:
「古賀さんの開発跡、いわゆる古賀村のあった場所の近くで確認したんですが、明らかにアマミアラカシが伐採されている。切り株が萌芽して、個体数も数えてあります、一個から平均何本出ているとか。あの萌芽は確実に切った跡です。」

−戦前の新聞に「イヌマキ(チャーギ)を売ります。」という古賀商店の広告があります。

新納:
「ああ、イヌマキは一回使えば一生ものですから。イヌマキとモッコクはそう。島では使わないで商売用に使ったんじゃないですか、いわゆる材として高く売れるだろうし、そういうのには利用していると思いますよ。」

−他に樹木だと魚釣島はビロウが非常に高くて印象的だそうですが、

新納:
「ビロウは他の樹よりも潮風に強いわけです。だから他の植物よりもとび出て、その上葉っぱが普通の緑色ではなく、黄緑色です。遠くから見ると黄色の方が良く浮かんで見える。それで島の表面がビロウの色に覆われている恰好になるわけです。黄尾嶼もビロウで黄色く染まった様に見えます。近付くとビロウだと分かりますが、遠くから見ただけでは全部黄色味がかって見えます。」

−島が黄色く見えるのはビロウの所為なんですね。


※生物地理学上における尖閣諸島、その貴重な環境とは

−先生、生物地理学的に尖閣諸島は非常に重要な位置にあるようですが、少しお話ししていただけませんか。

新納:
「黒潮が尖閣列島付近で、東北の方角に方向変換する。それと島が小さいわけです、小島でしかも亜熱帯。地球上で、世界中探しても一つの国で亜寒帯から亜熱帯に続いてる、これは日本しかないです。亜熱帯で樹木の生えてる場所というのは少ないんですね。いわゆるアラビア半島からリビア砂漠ですよ、この緯度は。そういう意味でも非常に稀有で、しかもこの小さい島で生きていく為には其処に生きる種だけで交配をして世代を繰り返さなきゃいけないわけです。」

−その結果、固有種が産まれるという事でしょうか。

新納:
「いわゆる島と言うのは閉鎖性がありまして、島の中だけで互いに交配しあって生きていく。結果他の場所よりも種が分化、分かり易く言うと進化していく。それで種の種類は少ないけれど固有種が産まれるわけですが、小さい島が故に外圧に対しては脆い点があって、あの山羊の問題になるわけです。

それと中国・台湾、いわゆる大陸と過去に陸続きだったという点、魚釣島にシュウダという無毒蛇がいますが、これは与那国、台湾のそれと一緒だそうです。植物ではタカサゴアザミやウラジロガシ等も過去に(尖閣諸島と大陸が)陸続きでないと分布しないわけですから、地史的な意味でも尖閣列島というのは非常に重要です。

あと、過去に人が一定期間住んでいたが、殆どの期間無人の儘に放置されていた。帰化率という言葉があるんですが、その地域の植物の中に他所から来た植物がどれだけあるかを計るわけです。計算してありますけど、尖閣列島で一番高いのは黄尾嶼で約5%。魚釣島は約1%。南北小島が約4%。一方沖縄本島の那覇で約30%ですから、帰化率が高い程人為的に攪乱されていると言うことになります。

だから尖閣列島という場所は過去に人の手が加えられているだろうけども、自然の破壊に対してはそこまで、帰化率から見たらかなり少ないんです。」

−魚釣島は面積で言うと小島ですが和平山という300m超の山を備えています

新納:
「いわゆる火山島、火山が通ってるんですね。魚釣島の山に登って見渡すと絶壁の上に岩が乗っているというような感じを受けます。見ているとその岩が落ちるんじゃないかと、それに風が強くて、頂上はこう尖ったような格好です。いわゆる尖閣ですよ、そういう場所にセンカクツツジ、センカクオトギリといった固有種が生えています。普通ならあんな場所には生えていません。岩肌を這って芽を出しているんです。」

−先生の山羊の論文を読みますと、このままだと島が崩壊するんじゃないかと言う考察がありますよね。あれだけ食害が広くなれば。

新納:
「砂岩から出来ているわけですよ、火山脈が通って、過去には黄尾嶼も噴火してますね。多和田さんの論文には、沖を通っている船が煙が出ているのを見たという報告もある。島南部の海岸にはこんな大きな岩石が波打ち際にゴロゴロしています。島を一周するにも絶壁や崖で囲まれてる場所があって、そこを通るには山裾をゆっくり歩くしかないです。」


※山羊に侵食される魚釣島

 1979年調査で撮影されたヤギ

−山羊の食害について少し詳しく御願いします。

新納:
「1998年、魚釣島の山羊を観察した横田さんは島の南側だけで300頭も見ているわけです。しかも船からの観察だけですから、島の内側ではどれだけ繁殖してるのか分からないんです。中でも一番心配なのは絶壁、急斜面の地域。山羊は四つ足で何処でも登るわけでしょう本当に何処でも。何故か絶壁の様な見通しの良い場所を好んでたむろするんですね。先年硫黄鳥島に行った時もたむろして、あそこは崖全体もう真っ赤になっていた。

横田さんは見える部分だけで300頭見ている。島が禿げているから見えるわけです。樹が生えてたら、とてもじゃないけど300頭は見えない。それだけで如何に食われているか判断できます。」

−このまま放置していると、先生の懸念されている通り島の崩壊に行き着くかも知れません

新納:
「ええ、平坦な処のビロウは高く生えていますけど、地形の険しい風衝の部分には全部山羊が届くんですね、山羊は草よりも樹木を好んで食べると言います、2003年の横畑さんの報告見るとその辺りはもう白くなってる。一番崩れやすい地形からやられているという恰好ですね。山羊が南に来てるという事は北斜面の山を越えて来たって事だから、山頂付近の固有種は一番最初に被害を受けていると考えるのが自然でしょう。」

−1979年ですが先生が行かれたときは山羊はいなかったですか

新納:
「えっと件の山羊は僕等の調査の前年に持って行っているみたいですが。調査時には4頭確認したと聞いています。」


※戦前、尖閣諸島には山羊が居た

−高良先生は第一次、第二次調査で山羊汁目当てにライフル持参したとか

新納:
「ええ、それに僕等が高良先生と行ったときも山羊には出会わなかった、だけど実際には古賀さんの頃にも山羊を連れて行ってるんですね。」

−日本青年社の方はつがいで連れて行き、古賀さんの時代にも連れて行った。つまり昔から尖閣に山羊がいたという話になるが、これほど爆発的に増えたということは・・

新納:
「この本に載っている山羊塚の話がありますよね、漁師なんかが山羊を食べたという事になっています。ですから山羊はいた筈ですね。だけど島をああいう具合に破壊するまでには至っていない、隆起サンゴ礁の植物なんかは全部残っていましたから、山羊の好きないわゆるンジャナバ(ホソバワダン)なんかを好んで食べるんですよ、山羊はあれをこう、毟り取って喰い千切って食べる。だから分かるんだけど、食べていませんでしたから。山羊は今程いなかったと思います。」

−古賀さんの時代には放し飼い、放して置いてあとで捕って食べたりしてる様です。

新納:
「そういう範囲じゃないですかね放し飼いと言うのは。僕等が行った時は全然跡形も。」

−島に人間がいたら、そこまでの繁殖は押さえられていたかも知れない

新納:
「写真、古賀村を写したものに猟銃を持っていた写真がありますね。」

−ええ、時々は野生化した山羊を漁師が捕っては食べて、、、それで

新納:
「あの食べ方(捕獲方法)が又面白い、マッチ棒持って30〜40名で囲んで火を放って焼き殺したって書いてある。読んでひゃっとした、よくぞ全島焼き払わなかったものだと。」

−ああ、それは。

新納:
「びっくりですよ。しかし、このまま山羊を放って置くとどうなる事か。」


※逃げ腰の日本政府

−本当に国、政府には尖閣への対応を早く、何とかして欲しいわけですが。

新納:
「そうですね、やはり一番に山羊を何とかして欲しい。山羊の被害は小笠原の件でも分かってるわけです。しかし日本政府は卑怯ですね、あの衆議院の質問に対する答弁読んだら、資料の持ち合わせがないって返事してるわけでしょ、あれは本当に卑怯な言い方です。尖閣列島に対してどう施して良いかどうか分からない。政府はもう何も出来ませんって言ってるのと一緒です。もう読んでいて情けなくなった。で、そのあと何か調査をしますなり付け加えるなら少しはましだけど、それもしない。どういう様な手を施したらいいだろうか、私たち全く行っていませんから分かりません、とこう言うだけ。山羊問題を何とか世間に提起出来れば良いんだが。」


※日本人が尖閣諸島を調査した証拠

−僕は台湾の人工衛星は尖閣の上空を飛ぶ軌道だと言う話を聞いてびっくりしたことがあります。

新納:
「飛んでるそうですね、他の国も色々やっているという事でしょう。政府は日本が実効的支配をしているから、尖閣列島に領土問題は無いと言っていますよね。全然まともにやってもない癖にそんな事を言う。僕はこれ(尖閣研究)が、いわゆる日本国民が行って、事実ちゃんと調査しているじゃないかという、証拠にですね。先日に、『中国は一番最初にこれ読んで気にするんじゃないか』と言いましたが、日本政府の読み方によっては明らかな証拠になると思う。

多和田先生は素直に書いてあります(笑)、『琉球人は自分の国以外に人の処に入っていかない。』もうなんかとっても(笑)多和田さんの言い方だなあと、揮ってるねえと思って。そういうような泥棒根性を持っていないと言うことでしょう。」

−他国の領土なんかへ調査には行かないと

新納:
「ええ、だから自分は黙って行けたんだ、自分の国の領土だからちゃんと行って来たんだと。沖縄の人は他人の国に黙って入らない、ましてや調査なんかしない。」


※尖閣諸島の魅力

 尖閣諸島の海鳥

−話を戻しますが、先生。なぜ尖閣に引きつけられるのか、島の魅力について御願いします。

新納:
「先程も話しましたが、本当にあんな島ないわけです。私達がこれまで経験したことのない島なんです。魚釣島は勿論、南小島北小島も総て普通じゃない。北小島と南小島は鳥です、しかも種類が違うんですね。北小島の方はアジサシ、南小島の方はカツオドリ。植物も同様です。

黄尾嶼に行ったらですね、もう度肝を抜かれますよ。あそこは溶岩島でして、樹木が溶岩の上をこう、クモの巣の様に這い蹲って張ってます。葉っぱはチョロッと出しているだけで、そんなのがもう海崖の端まで。草花はンジャナバなんかの大きいのが溶岩の間に糞が溜まって、幹を大きく太らせて葉っぱだけが出ているような恰好で生えている。他方ガジュマル(コマルバガジュマル)は海の方に向かって真っ赤な枝を伸ばしている、そういった植生が段々山の方にあがって行くにつれ、ビロウになる。北面はずっとそんな調子です、いわゆる風衝植生が良く分かるんですね。とにかくびっくりします。」

−先生、黄尾嶼の海鳥はどういう種類がいるんでしょうか。

新納:
「カツオドリ、それとガジュマルの根っこの間の穴にオオミズナギドリが巣を作っています。昼間はつがいで入っていて、手を突っ込むとこう、嘴で突っ付かれます。(彼等)は夕方になると外に出て来るんですが、直ぐは飛べない。ガジュマルの根の巣穴から出て来てその上にちょこんと乗っかって、こうトトットトト行くわけです。それから滑空する。連中は平たい場所からは直ぐ飛び立つという風にはいかない。カツオドリもそう。南小島で僕等が行くと(カツオドリは)逃げるわけですが、逃げると言ってもこう、斜面をよちよちして、傑作ですよ。いわゆる海鳥の生態です。もうとにかく自然のあるが儘の状態を実感できるわけですよあれは。」

−尖閣諸島に観光船を持って行って海鳥ウォッチングをと言う人もいます。

新納:
「あの光景は凄いですよ。最初にボートから足を降ろす、其処からもう降りられないです。次に波打際までヒナが寄って来ます、上からは親鳥がバサーッと来て突っつきます。ヒッチコックのあれと同じ(笑)本当に突っつきます。羽が顔をなでる音がシューッと来て、そしてこう、一瞬に糞の雨を降らすわけです。もう最初行ったときには度肝を抜かれました。

北小島の島中アジサシもう糞ばっかで草も枯れてとにかく臭い(笑)。臭くてあすこに居れないですよ。その時に森田さんが向こうの端まで行ってアホウドリ見てるわけです。僕はもう逃げて帰りましたよ。一つの植物も何もない枯れてて、鳥ばっかしで臭くて。なんて言うのかな、とにかく居ながらにして自然との対話が出来る、実感できます(笑)。」

※横田さん=琉球大学理学部 横田昌嗣教授
※横畑さん=富山大学教育学部 横畑泰志助教授
※多和田さん=沖縄考古学の先駆 多和田真淳先生
※森田さん=尖閣諸島第三次調査団員 森田忠義先生



新納義馬先生略歴
新納義馬:
 大正14年鹿児島県奄美大島に生まれる。昭和29年琉球大学卒業後、同大講師、助教授、教授を経、琉球大学名誉教授。専攻は植物社会学であり、沖縄県文化財保護審議会委員、自然環境保全審議会委員等を歴任。琉球列島における植物社会学の第一人者、氏の論文著書は沖縄の植物社会を議論する上で大変重要な業績である。2005年秋にはその教育研究功労に対して瑞宝中綬章を授与された。
 現在は環境アセスの現場に呼びかけ、蓄積した業績を共通の財産として共有し野外実習や勉強会を積重ね沖縄の生物学の発展を目的とする「沖縄生物学塾」を主宰、後進の指導にあたっている。
 尖閣諸島においては6回に亘る渡島調査があり、尖閣植物研究の泰斗である。とりわけ71年「琉球大学尖閣学術調査」、79年沖縄開発庁の「尖閣諸島総合調査」における植物部門の責任者として調査を主導した。「尖閣列島の植生」(琉球大学文理学部紀要)、「沖縄の自然 その生い立ちを訪ねて」(平凡社共著)他多数の論文・著作がある。



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