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幻の尖閣切手発行顛末

〜海洋シリーズ第三集「海と海鳥と島」〜
                           國吉真古

 中国側の不当な領有権主張は、各界の憤りと危機感を招いていた。琉球切手発行を管掌していた琉球(政府)郵政庁においても同様だった。
 ここで話を転じて、その琉球郵便切手について触れたい。
 郵便切手は、その国の小さな博物館とさえ言われている。
 その国の歴史や民俗、風物のみならず、時には心や時代精神が反映されている。

 琉球郵便切手も、戦後二七年間の歴史を映し、沖縄の心を、思いを託してもいた。これまで幾つか掲載したが、カラーで紹介できなかったのが残念だ。米軍政統治下で、一国並みに切手発行の権能が付与された経緯が面白い。

 一九四八年、島内の通信が許可されて廃墟の中から郵政事業はスタートした。
 当初は郵便配達は無料だったが、軍作業で賃金制度が導入され、通貨が軍票B円に統一されて配達は有料制に移行した。
 そんなある日、米軍郵便係官将校が比嘉秀太郎(元沖縄民政府郵便係)を訪れた。黒インクと画用紙をもって来て、これで切手の図案を描いてほしいと言った。

 比嘉は驚いて断った。当時は図案の参考になるものはない、切手すらない、鉛筆はおろか、絵具、紙一枚とてなかった。インクとペンだけでどうにもならない。
 だが、米軍の命令であり、引き受けざるを得なかった。
 比嘉は南島の植物や風物をあしらって、どうにかこうにか「そてつ」「ゆり」「山原船」「人物(農夫)」を描き上げた。
 第一次通常郵便切手の誕生である。

 琉球切手は、廃墟の中で黒インクと画用紙からスタートし大きく発展し、沖縄美術の珠玉とも称されるほどになった。
 南島の著名な画家たち、〜山田真山、名渡山愛順、大嶺政寛、安谷屋正義、玉那覇正吉、大城皓也、伊差川新、安次富長昭これらの画伯らが原画を描いた。

 南国的デザインと色彩で切手愛好家を魅了するまでになった。
 海外からも注文が殺到して人気は絶大だった。
 発売日には長蛇の列ができるほど好評を博していた。
 発行も二六一種を数えていたが、日本復帰で発行廃止となった。
 廃止直前までの切手を並べて眺めていて妙なことに気がついた。

 一.復帰記念の日本郵便守礼門切手 七二年五月一五日発行

 二.琉球郵便最終喜(ユシ)ビン切手 七二年四月二○日発行

 三.沖縄返還協定批准記念切手 七二年四月一七日発行

 四.海洋シリーズ第三集「海と海鳥と島」切手 七二年四月一四日発行

 一.二.三は既定方針通りの発行だろう。
 が、四の発行日が気になった。
 返還協定批准記念切手の三日前、最終の喜ビン切手発行の六日前である。あたふたとしたかけ込み発行としか思えない。図案はさらに気になった。
 切り立った断崖岩場に海鳥が戯れ空中を飛翔しているのもいる。
 直感的に尖閣の海鳥・カツオドリではないかと思った。
 切手原画制作者を調べてみたら、安次富長昭画伯だった。
 その安次富画伯へ電話で伺った。
 
 −あの切手は尖閣のカツオ鳥を描いたのですか

 「いゃ、あれは、アホウ鳥ですょ」

 −えっ、アホウ鳥ですって、これはすごい!!

 「郵政庁の頼みは、最初からアホウ鳥を描いてほしいと注文されていましたから、でも、見たことがないので困りました」。

 この難題は、郵政庁高官がアホウ鳥の剥製を持ち込んで解決した。琉球政府庁舎内林務課のカウンターに陳列されていたものだという。
 「ほんとに大きな鳥だったですよ、翼を拡げると三メートルほどでしたか、部屋が狭くなりました(笑い)」、この話には驚かされた。
 その前年七一年、琉大調査団による南小島でアホウ鳥発見の報道を思いだした。マスコミで報道されてたしか大きな話題を呼んでいたはずだ。

 だが、アホウ鳥は世界的な珍鳥、天然記念物で国際保護鳥に指定されている。なのに、なぜ剥製があったのだろうか。

 南小島で調査団が運良く死骸を見つけて剥製にしたのだろうか。
 政府庁舎内に陳列されていたと言うのも腑に落ちない。
 早速、生物標本を保管・陳列している琉大風樹館に電話したが、「アホウ鳥の剥製はなんかありません。」、と期待に反した不要領な返事。
 沖縄県立博物館の自然科学担当者へ電話を入れた。

 「アホウ鳥の剥製?、えぇ、ありますょ」
 「ワタリアホウ鳥とコアホウ鳥の二つがあります」

 いずれも本部町立博物館にあり、ワタリアホウ鳥は以前は旧政府庁舎内に陳列されたていたもので、友利哲男館長(元名護高校教諭)が剥製にしたとのことだった。
 これを譲り受けて現在、同博物館に陳列してあるという。
 友利は、鳥の新種ヤンバルクイナの発見者でもあった。沖縄の鳥類研究の硯学であり、鳥剥製づくりの名人だった。久米島に飛来してきたコアホウ鳥も彼の手で剥製に仕上げていた。

 後日、沖縄本島北部の海洋博記念公園近くにある本部町立博物館を訪ねた。
 件のワタリアホウ鳥は陳列されていた。大きくてかわいい。
 友利がこの剥製を作ったのは二七年前である、剥製づくりに至ったあらましは次の通りだった。
 七一年の夏、遠洋漁を終えた一隻の漁船が洋上を航行していた。
 二羽の大きな白い鳥が空中を飛翔していた。
 近づくと、漁船を目がけ突然急降下して甲板へ舞い降りてきた。
 船員は捕らえようと棍棒で殴打し、二羽ともうち殺してしまった。
 珍しい鳥なので、剥製にしたいと思い、冷凍庫に保管した。
 桟橋に着くと、急いで剥製屋を探したが、見つからない。
 困り果てたあげくの末、琉球政府林務課へ持ち込こまれた。
 そこでアホウ鳥と判明した。しかもつがいである、大きいのがメスで 小さいのはオスだった。肉も傷みかけている。急いで剥製にせねばならなかった。

 急遽、友利が呼び出された。彼は鳥剥製作りの第一人者だった。
 その鳥を見るなり驚いた。胸は高鳴った。まさしくアホウ鳥、身体や羽の特長からワタリアホウ鳥だと分かった。
 これらは南半球に生息し回飛している。とすると、捕獲したのは沖縄近海ではなく、南半球オーストラリア沖近くではないだろうか。
 尖閣で発見されたクロアシアホウ鳥とは種類が異なる。それでも、まぎれないアホウ鳥だ。こんな幸運なことはない。アホウ鳥の剥製がつくれるなんて、夢のようだ。
 が、足は折れている、時間もだいぶ経ち、肉も腐り、羽も抜け落ちかけている ともかくも、急いで処置をしなければならない。
 トラックで彼の住まいへ運ばれた。
 羽を拡げただけでも二三メートルになる大きなものだ、しかもつがいである。仕事部屋は一段と手狭くなった。
 不眠不休で、剥製づくりに取り掛かった。
 折れた足は棒で補強した。目玉はガラス球を入れた。抜け落ちかけた羽を取り揃えれば、もう出来上がりである。
 船員は出来上がった剥製に大満足だった。大きい方のメスを持ち帰って小さなオスはお礼にと置いていった。
 それが農林局林務課カウンターに陳列されていたものだった。

 郵政庁幹部はその剥製を借り受け、原画制作者である安次富画伯の元へ持ち込んだ。
 安次富は繁々と観察した。アホウ鳥は大きい、しかも美しい鳥だ。この剥製を参考にすれば止まっている姿は描ける。
 が、飛び立つ格好は分からない、飛んでいる姿態は描けない。
 尖閣列島に生息しているというが島の様子は想像もつかない、どの島に、島のどんな場所に巣づくりしているのだろうか、どんな姿で戯れたり、くつろいでいるのか見当もつかない。
 幸い、琉大尖閣調査団がアホウ鳥を発見していた。団長の池原貞雄教授からこの時に撮った多数の写真を借り受けた。

 池原は、尖閣にいるのはワタリアホウ鳥ではない、クロアシアホウ鳥だとして、その鳥の特長と島の様子を説明した。
 尖閣列島は東シナ海の洋上に浮かぶ絶海の孤島、険阻な島だった。海域は、波浪も荒く、人も寄せ付けず、魚族は豊富であるという。海鳥楽園の南北小島は、人踏を阻む奇岩怪巌からなっていた。
 その南小島の鋸立した断崖の中腹岩場にアホウ鳥は営巣していた。安次富は尖閣の「海と鳥と島」のイメージを膨らませていった。
 そして、「波濤が押し寄せる尖閣の紺青の海」「上空を飛翔、岩場で戯れるアホウ鳥」「鋸立した険阻な南小島」を構図いっぱいに描き上げた。色鮮やかで素晴らしい出来映えだった。国際保護鳥アホウ鳥を描いた切手では世界第一号ではなかろうか。

 こうして、海洋シリーズ第三集は、尖閣の「海と鳥と島」をモチーフに描かれた。なぜだろうか、この事実が今だに公にされてない、摩訶不思議である。
 一体誰が発案し、如何なる経緯で遂行されたのかも分からない。
 アホウ鳥の剥製を持ち込んだ渡嘉敷真球はもうこの世にいない。
 琉球郵政庁の当時の首脳はもう誰も残っていない。

 元切手審議委会の有力なメンバーに対し、尖閣に関した切手案件を審議したことがあるかと訊いてみた。

「審議会に提案されたことも、審議したこともない」
と素っ気ない返事だった。

 実際に、尖閣の「海と鳥と島」を描いた切手があるのに、 しかも審議会の審議を経ないと、原画決定も、切手発行もできないのだが。
 審議会委員の先生方は、あるいはこう反論するかもしれない。
 海洋シリーズ第三集のテーマは「海と鳥と島」であり、どこと特定されたものではない。
 一般的な「海、鳥、島」の図案を描いたものである。 従って、原画は審議会を問題なくパスし、切手発行されたのは当然である。

 ところが、当の郵政庁は「アホウ鳥なり」と厳しい注文をつけている。原画制作者はその注文に応えて「アホウ鳥」を描き、上空を飛翔している「尖閣の海」を、生息している「南小島」を描いている。

 郵政庁首脳が海洋シリーズ第三集で「海と鳥と島」のテーマを前面に打ち出したのは賢明だった。琉球政府公報や公告、告示、切手シートに明記した。
 そのお陰で、誰しも一般的な「海と鳥と島」が描かれていると疑わなかった。このテーマ前面打ち出し作戦?は大いに効を奏したものと思える。米国民政府の厳しい審査も大蔵省印刷局の検査も難なくパスした。

 その三日前発行された沖縄返還協定批准記念切手は、米国国旗云々でたいへんに難渋したというのに。
 誰が仕掛けたのか、この作戦は感心ものだ。

 一九七○年の尖閣をめぐる状況は、大詰めを迎え緊迫した状況下にあった。二百余の市町村や民主、経済団体を組織した「尖閣を守る会」が組織され、島ぐるみの運動が沸き起こっていた。琉球政府は領土宣言をし、琉球立法院は「尖閣防衛」を決議し、内外にアピールしていた。

 琉球政府通産局砂川局長は「尖閣開発KK」創設に奔走していた。琉球政府通産局が権限をもっている間に、尖閣の石油鉱業権を許可したいとしていた。
 郵政人の尖閣にかける思いも強かった。琉球郵政庁が権限をもっている間に、沖縄の島・尖閣を現した切手を発行をしたい。これが彼らの心意気であり、悲願でなくして何だったろうか。

 だが、不本意にも、沖縄返還協定協議は紛糾していた。
米国政府は、当初、尖閣を返還協定内に含めるのに渋った。
 誰もがその変節に抗議し、卑怯千万と憤った。 沖縄開発庁山中定則長官らの尽力で、終局には返還協定内で処理された。
 台湾や中国政府は理不尽な領有権主張の外交攻勢をなおも強めつつあり、日米両政府は両国を刺激すまいと神経ピリピリだった。
 こんな微妙な時期に尖閣を題材にした切手なんてとんでもない。
 これで外交がこじれてしまったら一大事である。
 もしも、琉球郵政庁が、緊迫した状況下では、切手発行を決意していたならば、あくまで素知らぬ顔でやるしかなかったであろう。
 幸い、七五年、沖縄国際海洋博覧会開催が決定されていた。

 当時の状況から判断して、次のように推測せざるをえない。
 この海洋博開催を記念に海洋シリーズを企画し、最後の第三集に盛り込めば、復帰直前の最も混乱極めた時期だから、ドサクサでチエックの目を眩ませる。
 幸い、南小島でアホウ鳥が発見され、巷間の話題になっていた。
 海洋シリーズ三集は「海と海鳥と島」をテーマに押し進めていくとした。無論、実行に際しては、細心の注意を払ったであろう。

 庁内で情報が洩れマスコミに察知され、騒がれたら万事休すである。郵政庁のほんの一握り人間、首脳幹部しか知らない機密プロジエクトだったかもしれない。安次富の元へ剥製をもってきたのは渡嘉敷真球郵政庁長だった事実からも、このように推測するのは、あながち飛躍した考えとは言えまい。
 ともあれ、この切手は「海洋シリーズ」第三集として発行された。

 第一集.島と海七二年三月二一日発行250万枚

 第二集.珊瑚礁七二年三月三○日発行250万枚

 第三集.海と海鳥と島七二年四月一四日発行250万枚

 この「海洋シリーズ発行」の経緯に興味がもたれる。 今日では、琉球郵政庁の公文書は復帰のドサクサで散逸し現存してない。
 発行の真相、当時の経緯を裏付ける資料は一片も残っていない。

 当時切手発行所管の郵政庁郵券課長は浜元暁男だった。
 沖縄市のマンションに浜元氏訪ねた。
 当時、大見謝の奮闘を新聞で知って感激し、ホテル大文閣で面会を約束をしたという。が、大見謝に急用ができて会えなかったのが今でも残念だと言った。
 情熱家の浜元が、豪胆と敏腕さを買われて拝命した、復帰事務処理で忙しい時期だつた。七○年十一月から七二年の復帰直前で、最も繁忙を極めていた。
 在任中の思いでの一つは、「琉球政府立公園、西表マリウド滝切手」を復帰に伴う米ドル対円の通貨交換差額保証の証紙として急遽転用されたことだった。
 この興味深い秘話は「証紙に化けた琉球切手」 沖縄県立博物館友の会「博友」第十号 1996.3」が紹介している。

 当時浜元は復帰に伴う郵政省関係機関との事務処理交渉に忙殺されながら、琉球郵便切手発行に伴う日米政府のクレーム処理にも当っていた。
 前記の証紙に使われた「西表マリウド滝」切手発行についても公園指定の件で農林省や国土庁、文部省まで巻き込み物義を醸したものだった。
 日米両国国旗を配した図案の沖縄返還協定批准記念切手も然り。米国民政府から米国旗が小さいとクレームをつけられた。

 六七年三月、「日米琉合同植樹祭記念切手」が印刷まで済んでいたところ、米国旗云々でクレームをつけられて発行停止処分になった事もある。
 日米両政府の横やりを受けないようにするのが第一だった。
 ところが、復帰は秒読みの段階に入り、現下の沖縄返還協定協議で、尖閣をめぐる日米両政府の確執があった。

 そんな時期の尖閣切手発行は一番にタブー視されていただろう。
 日米両政府はもとより切手審議会においても「こりゃダメだ」と杭を打たれる。だからこそ、いかに巧妙にカムフラージュしつつ推進するかである。

 郵券課長浜元はあくまで強気だった。
 尖閣をテーマとした切手発行を、なぜ日本政府は嫌がるのか、長い目で見るならば得策ではないか。
 日本政府は我関せず、琉球政府が自らの権限で勝手に発行したとすればよい。
 浜元は海洋シリーズ第一集「島と海」に別の目論見を抱いていた。
 どうせ切手原画の写真を撮るならば尖閣の海と島にしたい、波濤が打ち寄せ、海鳥が飛翔する南北両小島の夕景色もよい。
 が、岩骨怪巌が鋸立する魚釣島の雄姿が望ましい、洋上に突き出た島影だけではどこの島なのか、誰も分かりっこない。
 最後まで知らぬ存ぜぬで押し通せばよい、郵券課原画技官二人に先島へ二週間の出張命令を下した。
 とても忙しい時期の出張だった。
 浜元の仕事ぶりは、予科錬出だけに豪胆だった。

 琉球切手原画は復帰に際して大蔵省印刷局に掛け合い里帰りさせ、彼のお陰で貴重な原画が県立博物に収蔵され、観覧できるようになった。
 最終の喜(ユシ)ビン切手は「FINAL ISSU」と付記されている。
 これは世界に類例がないという。浜元は切手審議会を通さず強引に印刷させた。
 また、琉球切手は売れるからと海洋シリーズを二五○万発行させたのも彼の建言だった。その直前の琉球政府立公園シリーズは一八○万発行であった。

 さて、第一集「島と海」だが、もしも、岩骨尖峰の島影に「魚釣島」と明記したら、日米両政府の検閲官はマユをひそめて驚くだろう。
 浜元はその様を想像して、ひとりほくそ笑んでいた。
 だが、先島へ出張した係り官は折しも天候悪く、尖閣に向けて船出できなかった。
 僅か二週間の期間しかなく天候の回復はいつまでも待てない。慌てて八重山周辺を回ったが、気に入るような光景に出くわさない。那覇に戻りやっとのことで「慶良間の海と島」の夕景色を撮った。
 浜元の目論見は実現できなかった。

 他方、第三集のプロジエクトは着々と進展していた。
 「尖閣の海とアホウ鳥と南小島」は見事な出来映えだった。
 海洋シリーズ第三集「海と鳥と島」の切手原画は審議会をパス、次なる関門の米国民政府からもなんの物言いもなく、大蔵省印刷局へ送付された。
 日本政府からのクレームもなく二五○万が印刷指示された。
 七二年四月十四日、琉球政府公告通り、ついに発行された。

 その三日後に「沖縄返還協定批准記念切手」発行、さらに三日後には、琉球郵便フイナル切手ー祝いシンボルの「喜ビン(祝い酒ビン)切手」発行が予定されていた。
 復帰当日は日本郵便「復帰記念守礼門切手」が発行され、以後は日本切手に取って代わっていくことになる。

 琉球郵政庁は、世替わりを期して解体消滅し、琉球切手発行は廃止となる。もう、永久に発行されることはない。

 郵政人たちにとって、「尖閣切手」即ち「尖閣地図切手」や「尖閣記念切手」発行は、とても叶わぬ夢だった。
 ならばせめて、尖閣を舞台にした海洋シリーズ切手を発行したい、琉球郵政庁が切手発行の権能を有している間の悲願だった。
 千載一遇のこの好機を逸せずと、彼らを駆り立てたものと思える。
 苦心算段の末、第三集「海と鳥と島」は滑り込みセーフで発行にこぎ着け「尖閣の海とアホウ鳥と南小島」切手は、復帰一月前にかけ込みで発行された。

 この快挙を成しとげて、誰もが安堵しただろう
 郵政人として、これで心おきなく世替わりを迎えることができる。
 五月十五日の世替りは、足早に、もうそこまで来ていた。

                          (國吉真古)

写真説明:
比嘉秀太郎の黒インクで描いた第一次通常切手
復帰記念日本郵便守礼門
琉球郵便最後の喜ビン
沖縄返還協定批准記念切手
海洋シリーズ三切手
問題切手の写真
安次富画伯と南小島やアホウドリの写真
友利哲男とアホウドリの写真
通貨確認切手



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