恐怖と驚きの連続だった!!
                                照屋林松

 1963年、私は高良鉄夫先生のアホウドリ調査の一員として尖閣へ渡島した。

 その頃は学校用科学教材を扱う沖縄科学教材社に勤務しており、稲福社長が高良先生からアホウドリ調査の話を聞いて、尖閣行きの話が社内で取り沙汰されていた。
 稲福社長は、尖閣にアホウドリが生息していたら大発見になるからと、16ミリの映写カメラ(米国フレックス社製だったかな?)をわざわざ購入し、貴重な記録映画(?)を撮影して来いと、ずぶの素人の私が特命をうけた。
 ひょんなことで私の尖閣行きが実現したが、渡島の思い出は、恐怖と驚きの連続だったの一言に尽きる。

 私自身も最初の記録映画撮影とばかりに張り切っていた。が、那覇港を発ち、赤尾礁(大正島)に近づいた頃、米軍の演習海域に入ったということで、突然砲弾(照明弾?)を打ち込まれた。
 真夜中1時頃で全員眠っていた。ものすごい音に起こされて右往左往、英語辞書を引っ張り出し、琉球船籍と無電し、OKの許可が出て、どうにか助かった。

 それが最初の恐怖だった。その安心もつかのま、赤尾礁を目の前にして、突然三角波の恐怖が襲ってきた。
 船は45度(?)も傾き、もう転覆寸前である。船橋の上で16ミリを撮影していた私は、大事なカメラを守ろうと必死で鉄パイプの手すりにしがみついていた。甲板を見ると、あれやこれやの大騒ぎ、突然一人の船員が怒鳴りながらハンマーを手に駆けつけてきた。
 兎に角、難を逃れて、全員助かったが、このときの死の恐怖と驚きで肝をつぶして、マブイ(霊魂)を落としてしまった。これが2番目のものだった。

 そのあと、船は一路、南小島へ、上空は海鳥が一杯飛び群がっているのが見えた。島の近くに奇妙な格好の船が5、6艘いた。
 また大きなカゴを抱えた男たちが島に上陸し、海鳥の卵やヒナを盗っていた。
 両端が反り返った船は台湾漁船で台湾漁民とのことだった。
 だが、当時の私には、とても恐怖に思えた。ここは地の果て、絶海の孤島、ここで危険な目に遭ったとしても誰にも分からない。奇妙な船は海賊船で、男たちは卵やひなを略奪する海賊の一味、相手は5、6艘の多勢だ、襲われたら命はないと恐怖し驚いた。
 しばらくすると男たちは島から去り、船も島を離れていったので安堵した。

 南・北小島へ行くのにボートに乗り移った。そのボートから飛び降りて上陸した時も、上陸したあとも、恐怖の連続だった。

 海鳥はカツオドリやアジサシたちは、太陽の光を遮るほど無数に群がって飛んでいた。数十万羽はいただろうか。だが、私には壮観というより恐かった。鋭い嘴を人間に向けて突っ込んでくる鳥もいた。攻撃的になっていたのは繁殖期で卵やヒナがいたからかもしれない。あのヒッチコク監督の映画「鳥」以上だった。
 あんなに大勢の鳥たちの前では生きた心地もしなかった。一斉に鳥たちの総攻撃に遭えばとても危険だったから、決して一人で行動はしなかった、島では全員が一列隊伍で進んでいた。
 兎に角、海鳥の大群は迫力や凄みがあった、いまでも思い出すと恐いくらいである。私の尖閣渡島の恐怖と驚きは、その後も止むことがなかった。

 そんな恐怖と驚きの連続の中を、しかも馴れない手つきで16ミリカメラを回し続けたものだから、アホウドリ調査の記録映像はうまく撮れる筈がなかった。
 稲福社長が折角張り切って新品を購入し、当時珍しいカラーフィルムまで持参させられた。ところが、ずぶの素人の私が事前練習なしで、本番撮影とばかりに、カメラを回し続けた。
 現像してみたら、私の力不足で、記録映画にするほどのできばえでなかった。
 今でも稲福社長の期待に添えず申し訳ないと思っている。

 その16ミリフィルムだが、沖縄科学教材社は解散し、沖縄科学鰍ェ資産を引き取ったが、フィルムは保管状態が悪く、使い物にならないほど傷んでしまったと聞いている。
 できばえがよくなくても、1963年の尖閣列島の海鳥、高良先生一行のアホウドリ調査の光景を撮った貴重な映像だけに、残念でならない。帰島後は、尖閣で幾つもマブイを落としたものだから、しばらくはウフトルバイ(茫然自失)していたものだ。

 44年前の当時に思いを馳せると、恐怖と驚きの連続だった思い出が次々と浮かんでくる。

                   (ベビー・子供服 林屋 代表)


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