「尖閣研究 高良学術調査団」より、 *尖閣諸島学術調査団(序文) 座談会 出席者 高良 鉄夫 元琉球大学学長 上運天 賢盛 元沖縄女子短期大学付属高校長(生物科2年) 新納 義馬 元琉球大学教授(生物科4年) 瑞慶覧 長方 元沖縄県会議員(生物科4年) 新島 義龍 元沖縄県立那覇高校教諭(生物科4年) 田中 一郎 元沖縄県立開邦高校教頭(生物科4年) 森田 忠義 元鹿児島県立鹿児島中央高校教諭(教育科4年) 大屋 一弘 元琉球大学農学部長(農学科2年) 東 清二 元琉球大学教授(農学科2年) 泉川 寛 元アジア畜産取締役種豚場長(畜産科4年) 岡田 潤治 元(財)沖縄県農業開発公社技師(畜産科3年) 比嘉 清幸 元琉球協同飼料株式会社常務(畜産科3年) 高良鉄夫: 「皆さんと、ここに揃って、元気で会えることができて、とても嬉しい。白髪になったり、禿げたりしているが、顔かたちはそのままだ。歳はとったけれども、学生時代の情熱とファイトは消えてないから嬉しい。 尖閣列島調査に行ったのは1952年と53年でした。今から53、4年前だ。 当時は琉球大学も開学してまもなく、終戦直後の混沌としたときで、物不足で不便な時代だった。 皆さんは、学究精神に富んだ情熱的で、ファイト満々の学生でした。初めての無人島調査だったが、行き帰りは悪天候で大シケに遭った。 北小島と南小島では、セグロアジサシやカツオドリの大群を見て感動し、魚釣島では、断崖絶壁を飛び越えたり、昼は虻、夜は蚊にも悩まされたりでね。 島の自然の素晴らしさ、厳しさを肌で実感し、この調査で様々なことを体験し、大いに学んだことと思う。 今日は皆んなで当時の思い出を大いに語り合っていただきたい。 では、大屋さんからお願いします。」 *大シケで、生きて帰れるか?! 大屋一弘: 「尖閣列島への調査行きの話が出たのは、私が大学2年の夏休み前で、これはしめたと思い訳も分からずに早速手をあげました。 当時本部町にあった開洋高校の練習船に便乗するというので、首里から大学のトラックで行きました。本部から一晩かかって那覇の安謝港へ着き、また一晩かけて宮古の平良港に着きました。 宮古では上陸して一息ついたわけですが、夏の暑い日中を疲れて平良市の公設市場近くの古謝食堂でかき氷を食べ、美味しかったのを憶えています(笑)。 そこから八重山に向い石垣港へ到着し、最初は西表島へ渡ったと憶えてます。 船上や各地の探索途上で瑞慶覧長方さんから琉歌の講釈をして貰い退屈することがなかったですねぇ(笑)。それから尖閣列島に行きました。 最初に北小島、次いで南小島に上陸したのですが、海鳥のセグロアジサシやカツオドリが多いことには驚きました。 地面に足の踏み場も無い位、近づいていくと一斉にパッと飛び立って、空が薄暗くなるような感じでしたねぇ。 それを1メートル位の竹棒で叩くと、面白いように落ちてきましたが、余りの面白さに無駄な殺しをしたと反省しています(笑)。 魚釣島への上陸は北側の海岸で、鰹節工場跡もありましたねぇ。海岸は岩がごつごつし、遠浅になっていたので船は接岸できず、5、6名乗り位のボートに分乗して上陸したと思います。 その魚釣島では何泊野営したのか憶えていませんが、いざ引き上げの日に台風が接近し、大シケで荒れて、船は上陸した所に近づけず島の反対側の崖の上で待ちましたねぇ。 そんなこんなのハプニングもあって、貴重な体験を得て、最終的には無事帰って参りました(笑)。 非常に良い思い出となっています。 尖閣では、胴乱を担いで植物を採取し、自分なりに名前も覚えましたが、標本を大学にも寮にも置くところがなくて、しかもアルバイトで忙しく、整理もままならないうちに散逸してしまいました。今では採取できない貴重なものだったと後悔しているところです。」 高良: 「帰りは大シケにあったねぇ。確かにたいへんだった。尖閣調査はいつも危険な目に遭っている。海で沈没の危険ばかりじゃない。最初の調査でも命拾いした。 魚釣島は断崖絶壁だが、そこでも転落しそうになって、運良く助かった。 第四回目のアホウドリ調査に行ったときは三角波に巻き込まれて、船が傾いて危うく沈没しかけたよ。 それでも、いつも尖閣へ行きたい気持ちが一杯で懲りない(笑)。 だが、この調査の場合はねぇ。大勢の学生を引き連れているでしょう。責任重大だから心配だった。 しかしよく皆んな、元気で、無事に帰ってきたからよかった。一人でも病気だったり、死んでいたらたいへん。石垣港に着いたときはホッとしたよ。僕も若かったから、そんな冒険ができたんだろう。」 *歩く度にヒナをけっ飛ばす。 東清二: 「魚釣島へ渡る時もボートが傾いて海水につかり、またずぶぬれになりました(笑)。両小島では海鳥は殆どヒナだったんですねぇ。歩く度にけっ飛ばしたりして(笑)。 セグロアジサシ、オオミズナギドリが一杯でびっくりしました。 カツオドリもヒナがいて、親鳥は飛ぶがヒナは飛べない。だから、私らが近づくと長い嘴を突き出して向かってくるんですねぇ。 それから山に登ったんですが、道は当然ないわけです。リュウキュウセッコク、イリオモテランなどが豊富にあってねぇ。大学2年までは植物に興味がありましたので、早速採集しました。 尖閣では踏んだり蹴ったりしながらヒナをびっくりするほど見て、あんな素晴らしい所もあるんだなぁと初めて経験しました。 もう一度、尖閣へ行きたいですねぇ(笑)。沖縄から台湾へ行くとき魚釣島が見えるんですねぇ。ここで大分苦労したなぁと思い出しながら台湾へ行った憶えがあります。」 高良: 「東さんがカツオドリのヒナを蹴り飛ばしながら上陸したと言っていたが、北小島にはアジサシ類、南小島にはカツオドリと2つの島はそんなに離れてないが、うまく棲み分けている。 各々の島でも、細かい棲み分けがされている。」 森田忠義: 「僕はカツオドリのヒナがあんまりかわいいもんだから胴乱に入れてねぇ。しばらくは胴乱の中でペットにして飼ってましたよ(笑)。」 *経済人の応援で実現 瑞慶覧: 「当時の開洋高校が海洋実習するということで、玉城教頭先生に尖閣行きを交渉したら『いいょっ!』との一つ返事、但し条件がある、船の往復の燃料、これは琉大側でもつ、食事一切も自分たちで賄う。高校側には迷惑かけない。 それで僕らはよし分かったということで、まず燃料のオイルは稲嶺一郎さんの琉石にお願いしてドラム缶で現物支給してもらった。食料の米や缶詰は沖縄食糧の竹内和三郎さんやリウボウの宮里辰彦さんを訪ねてお願いしたら、皆快くOKしてくれましたねぇ。 お金は沖映の宮城嗣吉さんや国際劇場の高良一さんらが非常にきっぷがいいものだから『よっしゃ分かった!』と寄附してくれましたねぇ。で、当時の経済界からオイルも、米も、缶詰も、お金も頂いて行くことができました。」 新納義馬: 「国際劇場へお願いに行ったら、高良一さんの奥さんが目の前で分厚い札束を取りだして、『でぇいくらほしい?』と訊いたねぇ。僕らは学生でしょう、あんな札束を見るのは初めて、驚いて大きな額が言えない。 お金をもらった後でもっと大きく言えばよかったと後悔したですね(笑)。」 瑞慶覧: 「僕は沖映の宮城嗣吉さんには80余歳で亡くなる直前までとても世話になった。復帰後のことだったかな、あるとき寄付金は値切られてもいいからと、『100万円お願いします』と言うと、すぐ「はい」と渡した。あんな度量の大きい人はいない。」 新納: 「あの頃は幾らでも金が儲かる時代だったせいか。経済界の人たちは社会的事業に理解があって、率先して協力してくれましたねぇ。 高良一さんも、國場幸太郎さんも気前良かった。」 *八重山で歓迎攻め 悲惨だった移民村 瑞慶覧: 「それで調査は尖閣だけじゃない。折角八重山に行くのだからと、移民村、西表調査も加えた。 最初は裏石垣の方、ヤエヤマヤシのある所、米原に行ったら、宮古から来た移民の人が多くて、調査団が来ているというので「もう我々は移民じゃない棄民だ、捨てられたんだ、ここは雨で表土が流されて作物はできない、何とかしてくれ」と、高良先生たちを政府からきた調査団と錯覚してものすごい陳情を受けたことが印象に残っている。 また、八重山農林高校は高良先生が校長だった学校ということで相当世話になり甘えさせてもらいました。 非常に印象に残っているのは、大学生が石垣に来たのは初めてということで、ものすごく歓迎され、風呂屋もただでどうぞ、アイスケーキ(氷菓子)屋、ここもアイスケーキを食べ放題ですよ(笑)。蓄音機屋も蓄音機を鳴らして大歓迎!(笑)。帰るときは港まで皆が見送りにきてくれたですねぇ。 そのあと、西表へ渡ったが、そこの移民部落もひどかった。 西表でとくに印象に残っているのはダニが一杯いたことと、炭坑跡へ行って、山越えしたときに珪化木の化石ねぇ。そのまま生えているのをずいぶん採ってきて、僕は10年ほど持っていました。 それから尖閣へ行くのですが、練習船の皆さんが途中延縄でガーラ、バショウカジキを獲ってつくった刺身を腹一杯、豪快に食べましたねぇ。 北小島へ近づいたら南北小島の間は相当深い、夏場だから泳ごうとしたら、ここはフカ、サメがいるよと注意された(笑)。 北小島にセグロアジサシが無数、もう棒切れで叩けば2、3羽は落ちるほどでしたねぇ。その時の写真がありますが僕が何羽かを手にしている。 次の南小島ではシロガジュマルですか、それが相当生えていて、その間々にカツオドリも巣を一杯作り、もぅ子育てで、ヒナを守っていて、我々に対してものすごく攻撃してきましたねぇ。 そのあとは魚釣島ですが古賀さんの鰹工場跡で入浴している写真がある。また、皆さんは鰹工場跡の仮小屋に泊まりましねぇ。これは、僕たち3人が難破船の残骸にクバの葉っぱを伐ってきて被せて小屋を建て、この中で2晩野宿した写真です。 無人島生活は見るものふれるもの何でもめずらしく、楽しかった。だが帰る時は確かに大変でしたね。台風に遭い船は島の裏側に待機、そこへ苦労して移動した着いた所は絶壁の岩、高さは20メートルはあったかな。 丁度20日余りだったかな。出発から帰ってくるまで髭は剃らないと決心し、伸ばし放しでした(笑)。」 *天然の塩に感激 高良: 「ところで、八重山でいう「ヒーカジ」(火風)、風は吹くけど雨は降らない。その直後に行ったので強い潮風で密林の木が皆な枯れていた。 そして沖合から見ると海岸にギラギラ光っているのが見える。へんなものがあるなぁと思った。 上陸して見たら天然の塩の塊だったねぇ。タイドプールには氷が張ったように厚みがあって、人が乗っても割れない。 瑞慶覧さんが一抱えもある石をもってきた。何をするかなぁと思ったらそれを割りおる(笑)。無人島のいい土産だと皆んな持ち帰った。」 瑞慶覧: 「僕もこの塩は随分長い間持ってましたがねぇ。引っ越しのたびに減っていき、最後に残ったものは孫にやりましたが。」 高良: 「尖閣列島へは船を雇って行っている。あの塩を持ってきて売ればねぇ。少しは足しになったかもしれない(笑)。」 *島の地形は異様 一番印象に残る。 新納: 「私も皆さんと一緒に開洋高校の練習船を渡久地港から乗りましたが、最初の印象は恐ろしかったねぇ。 乗組員は皆んな猛者連中、あの頃は正式の船員じゃないわけですょ。だいぶ歳とった連中が多く、気が荒くて恐怖を感じましたねぇ。 ところで、私は西表には行ってないんです。 会計係だったので、玉城教頭先生に催促され燃料の薪が足らないというので、石垣でそれを調達していました。そのあと目的地の尖閣へ渡りますが興味本位で行っているんですよ。 学術調査というよりはとにかく行ったことのない島へ行きたい。印象に残ったのは今迄私らが見た島と格好が変わっている。これが一番印象に残った。それと海浜植物は沖縄本島とあまり変わらない。かなり南に行っても沖縄本島と同じ植物があると両方の島で感じましたねぇ。 それに魚釣島のビロウはすごい。琉球列島の中でこんなにビロウの多い島はないだろうと思うほど、ビロウが一杯だった。」 大屋一弘: 「あの鰹節工場跡にビロウを柱とか、屋根の桁とかに使っていた跡がありましたよ。大東島ではよく見られますが、ビロウに穴をあけて、幹は硬いし、背丈も高いから。」 東清二: 「そうですよねぇ、でも魚釣島のはものすごく高かったですねぇ。」 *ゴロゴロした岩場に固有種が 新納: 「あんまり高いもんだから、沖合からはビロウかどうか判らなかった。それに島は岩がゴロゴロしてとても足場が悪い。それでも植物などがものすごく生えていて、どんな植物があるかと採集して調べるどころでない。 行って見てくるだけで、それだけでも精一杯だったねぇ。」 *イヌマキの大木に驚く 高良: 「あとの調査というのは63年のアホウドリ調査だねぇ。途中で赤尾嶼付近で船が転覆しかけて潮を被って、予定が大幅に狂ってねぇ。 魚釣島は行かないことになったら、新納さんは南北小島は岩盤の島だから用はないからと、船長にジヤングルのある魚釣島に降ろしてくれと言う。 無人島で一人ぽっちでいるのはえらく危険なものだが、植物調査をしたいからと船から降りた。 翌日帰りの船で迎えに行ったら天幕がポッンと海岸にあったょ。人が住んでいた気配すらないから、新納さんは死んだかと思った(笑)。 皆んなで大声で呼んでも出てこない(笑)。まもなくしたら、ジャングルの中から出てきたから、「あっ、生きている、生きている!」(笑)。 あれ以来「魚釣島の村長さん」の渾名がついた(笑)。」 新納: 「あの時に降りたからよかったんですよ。あそこは島の東北岸ですが、あの東側の山頂部一帯は誰も行っていない。そこに船を着けてくれたから、僕は調査ができた。 こんな大きなイヌマキ(チャーギ)が生えてるんです。びっくりしたねぇ。あの場所は崖下で登れないわけですから、こんな大きなチャーギがやっぱり残っているんですよ。これを見たときは、「えっ、何これっ!」って、本当にびっくりしましたねぇ。」 *ビロウ葉裏の毒虫に刺され発熱 泉川寛: 「畜産科から僕と岡田と比嘉の3人が参加しました。多分、僕ら3名は瑞慶覧さんの紹介で夜警のアルバイトをしていたのと、瑞慶覧さんからは、お前たち少し金あるだろう、貯めているだろう、行こうと誘われたので、参加した憶えがあります。 とにかく、参加させてもらいましたが、僕の記憶では皆さんは、船酔いはするが食べることは上手だったですね(笑)。 僕ら3名は船酔いしなくて炊事当番させられました。薪は湿って火が燃えない。煙はモウモウする中、痛む目をこすりながら苦労して作りました。そしたら、船酔いで倒れているはずなのに、ゾロゾロと起きてくる。皆んな案外、船酔いはしても食べはするんですねぇ(笑)。 最初に上陸したのが北小島、鳥糞の異臭を我慢して登るとセグロアジサシの大群、親鳥の総攻撃をかわしながら沢山いるヒナのあまりの可愛さに頭を撫で回したのを憶えている。 それから南小島に渡り、少し平坦なリーフがある所で休憩、暫くしてカツオドリを捕獲したのかな? その後船に乗り魚釣島へ向かうと島が見えた。 毒蛇はいないと先生から前知識を授かっていたので安心して行動できました。シュウダの捕獲は生物専攻の皆さんがしたようです。 ビロウの葉の裏側に黄色い虫がおりました。一人が刺されてねぇ。岡田だったと憶えているが、翌日まで熱発して非常に心配した。何の虫でしたかねぇ。 あとは瑞慶覧さんが長い髭をボウボウ伸ばして、本島まで帰ったのは記憶にあります。」 高良: 「泉川さん、ビロウの木には大ムカデもいる。これにも刺されると腫れて危険だが、黄色の幼虫は何だろうねぇ。」 東: 「黄色っぽい幼虫ならゴマフリドクガか、タイワンキイドクガだと思います。 ビロウの葉だけでなくいろいろな葉を食べる雑食性の毒蛾の幼虫ですが、ダイコンも食べるし、ツルソバも食べる。」 新島義龍: 「さて私の番ですが、皆さんが大体のことを話してくれたので、私の話すことはあまりないですねぇ。印象深かったのは、渡久地港から開洋丸で出発したときの船酔いにひどく悩まされたことです。 北小島に渡って高良先生にこの水なめなさいと言われてしょっぱかったこと。セグロアジサシが一杯いたこと。 それから南小島に渡ったんですが、カツオドリのヒナがたくさんいて、あまり可愛いものだからとって楽しんだ記憶があります。 魚釣島では見るもの全てがめずらしく、面白くて、何をしたらいいのかよく分からなかった。もっと勉強してからくればよかったなぁと思いました。 今、後悔しているところです。で、91年にもう一度、尖閣へ行きましたが、その時の経験がとても役に立ちました。」 高良: 「91年というのはNHKの撮影で、池原先生らと一緒だったかなぁ。 あの時の体験が役に立って、そりゃあよかった。」 *生物音痴で誘われたのはラッキー 田中一郎: 「いままでの皆さま方のお話を聞きながら、53年ぶりに昔のことを思い出して、あぁ、懐かしいなぁとしみじみ思っていた所です。 琉大へは物理で入ったのですが、2年の時に高良先生の授業をうけたんです。高良先生の講義、何しかじかと難しいラテン語の学名がよく出ましてね(笑)。 こんなのを聴くのも初めてで、試験があってですねぇ、「サシバ」について書けと。その頃は、渡り鳥タカの一種と知らず「ゲタ」と思った(笑)。何で生物の試験に「差し歯」が出てくるのかな、でも昔の高校生は弊衣破帽で高下駄だったからと思い、丁寧に「差し歯」の絵も描いて提出しました。 そしたら、先生に「何かぁ、君は!」とこっぴどく叱られましてねぇ(笑)。 それから一生懸命やらなくちゃと反省したのですが、ところが素養がないから全然駄目ですねぇ。 尖閣列島調査へ、そんな生物音痴の私が誘われたのはラッキーでした。」 新納: 「私も高良先生の試験に「サシバ」が出た時、書けなかった。分からなかったですね(笑)。」 東: 「私も3年か、4年の頃に初めて「サシバ」という言葉を知った。 渡来の時季になると捕ってねぇ、那覇市場でも食用で売られていたが、「タカ」と言ってましたねぇ。」 *イリオモテラン一杯もってくる 田中一郎: 「アドベンチャーのつもりで興味があって皆さんと一緒した当時のことを、今思い出しているんです。一番困ったのは食事でした。 瑞慶覧さんと新納さんが一緒に炊こうと誘われましたが、僕は毎日食べさせてもらっているばかりで、1回も作ったことがなかった(笑)。 植物なんか見ても、他の人のように違いが分からない。全く素養がないから、凄いと聞いても、何ですごいのか分からない。僕は何も採集しないですよ(笑)。だがイリオモテランだけはたくさん採ってきました。 僕の首里の家の近くに古波蔵さんというランをやるおじいさんがいたので、全部上げました。そしたら感激して、そのおじいさんがいろんな人に上げて、今何も持ってないです。 1つ位残しておけばよかったと思ってます(笑)。 高良先生や皆さんには非常にいい経験させてもらいました(笑)。」 高良: 「魚釣島にはイリオモテランが一杯生えていた。帰りに甲板を見たらそれが一杯積まれていた(笑)。田中さんのものか、誰のものか分からない(笑)。ビニール袋を準備しないで潮を被って大半は枯らしたかもしれん。 今考えると貴重なランだ。あのときの現物を持っている人どなたかおりますか。」 瑞慶覧: 「僕もたくさん持ってきて、4、5年は生かしてましたが、全部パァなった。徳本行雄さん(沖縄ラン愛好会長)の所には、ヘゴに着生させた1メートル背丈で見事花を咲かている。 八重山に赴任した頃、船員が尖閣から採ってきたもので、今は大きな株になっていますねぇ。」 *北小島でアホウドリを発見 森田: 「僕は皆んなと違って教育学部から尖閣に行きました。 高良先生の影響で生物が好きになり、社会科から理科に変えましたが、「植物は歳をとってからするもの、足腰のたつうちは動物をやるもんだ」ということで、尖閣でも動物に関心をもっていました(笑)。 僕は渡久地港には行かず、何人かで安謝港から乗りました。僕たちが便乗した開洋丸は、宮古の平良港に寄港し、そこから石垣港へ向かい、八重山調査、尖閣列島調査になります。 皆さんがいろいろとお話しされましたので、ここではアホウドリのことについてお話します。 最初に上陸した北小島でのできごとですが、無数のセグロアジサシがいましたよねぇ。僕はコロニーをかき分けてずんずん一人で登って行ったんです。 しばらくしたら断崖にぶち当たったもんだから、思い切って、崖下を見たんですよ。白い大きな鳥が数羽、崖下の海の上で羽を休めて浮いてました。そのときは、おとなしそうな単なる白く大きな鳥だと思い、別段気にも止めてなかった。 2年後に、大島高校に赴任し、学校にあったアホウドリの剥製を見てびっくり、あの白い鳥と瓜二つなんですねぇ。それであの白い鳥がアホウドリだったと知った。 僕らが調査に行った53年には北小島にアホウドリはいたんですょ。」 高良: 「この話を森田さんから先刻、車の中で聞いて驚いた。 僕も63年に調査に行った時、南小島の頂部を白い鳥が旋回していた。が、はっきりしないものだからアホウドリはいないと報告したのだが。」 新納: 「それより10年前の53年のあの調査のときに、北小島にアホウドリがいたとすれば、これはすごい発見だ。何らかの記録に残した方がいいねぇ。」 森田: 「山梨大学の中村司先生が奄美に鳥類調査でこられたとき、その話をしましたら、「採集と飼育」(1957年3月号)の「屋久島・奄美大島鳥類調査紀行」で私の話を一言触れています。 ところが、大きな真っ白い鳥でアホウドリがいたと話した積もりですが、何で聞き違いされたのか、「クロアシアホウドリは…北小島での生息確認が最後」云々と書かれてますねぇ。」 新納: 「71年に調査に行った時クロアシアホウドリを発見し写真に撮りました。 その時、南小島の頂部にもアホウドリに似た白い鳥が3羽いたので写真に撮ったが、遠方なので写真から判断できなかったですねぇ。 もしかしたら、北小島にはアホウドリは以前から棲んでいたかもしれない。」 *宮古でハブを泳がす 上運天賢盛: 「私は第二次の調査で行きました。 この尖閣調査を新納さんから聞きました。どこにあるんだと訊いたら南にあると言うから、私がサイパン生まれだからサイパンに近いとこかなと思った(笑)。 そうしているうちに松元さんから誘われたので、この島どこにあるのと訊いたら、石垣島の南らしいよ。じやぁ松元さんが行くのなら私も行くよと、結局、高良先生、多和田先生たちと一緒に、学生は松元さんと新垣さんと私の3人で行きました。 無人島行きと聞いていたから小学生が無人島探険するような気持ちで、胸をワクワクさせてました。 多分1,800円(軍票B円)の負担金を高良先生に納めて宜しくお願いしますということで、糸満から出港して宮古に着いたのですよ。 そこで先生は沖縄のハブを籠に入れて持っているんです。それで宮古農林高校へ行って、ハブを飼育してもらえないかと交渉しました。 ところが校長はじめ教頭先生は、ハブと聞いただけでびっくりして、とてもじゃない、籠から万一逃げた場合、責任問題になるからとてもできない、高良先生はとても落胆されてました。 で、宮古には本当にハブは棲めるのか、棲めないのかということで、誰も見ていない所に行き、そこでハブを放すんですねぇ(笑)。それで様子を観察しているんです。 私と新垣さん2人はハブが逃げないように長い棒をもって見守り、1時間ほどだったと思うんですが、先生がどのような結論を下されたか知りませんが、またハブを籠に収めて海へ行ったのです。宮古の海にハブを放つんですよ。泳ぐんですねぇ。見事な泳ぎ方をやるんです。 先生はハブが岸に近づいてきたら、またポンと遠くへ放り投げて様子を見るんですよ。 私たちにはどういう研究か全然分からない(笑)。 これを終えると、先生はどこからかキシノウエトカゲをもってきて、観察して返しまして、で、そこから八重山に行きました。 石垣で尖閣行きの船の交渉に手間取り数日かかりました。幸い石垣の漁船を調達でき、尖閣列島へ向かいました。」 *カツオドリ親子撮影に失敗 岡田潤治: 「私は畜産3人衆の1人です。確かその時は船の油と米は自分たちで持つんだと聞いた憶えがあります。 先輩たちが燃料や食糧、寄附金を集めに、企業廻りして難儀されたんですねぇ。尖閣調査の裏方の苦労を初めて知りました。ともかく、開洋高校の練習船に便乗して行ったわけですが、確か30トンの船でした。あの頃の鰹漁船の普通の大きさでしょうね。 でもよくもまぁ、あんな小さな船で行ったと思っています。 感激したのは夜明けの太陽を、朝日を海の上で見たことです。とてもきれいでした。 八重山では移民部落を見ましたが、星立で裏に廻ったら伐採して焼き払った立木が一杯並んでまだあるわけです。その焼け残っている木々の間で、陸稲か何かを作っている苦労した生活、西表大原ではイノシシを獲って、あごの骨を台所に飾ってあるのにびっくりしました。裏には酒ビンが一杯積んでました。泡盛飲んでずっと何年も積んである。 星立でオオコウモリが一杯福木の近く飛び回って。これも印象的でした。 尖閣の海はいつも荒いと聞いてました。高良先生が海鳥王国とか表現してましたねぇ。本当に海鳥王国そのものです。」 *海鳥の群生、一番いい時期に渡島。 高良: 「岡田さんねぇ、尖閣列島は、昭和5、6年頃は「東洋一の海鳥の群集地」と言われていた。僕も皆さんと一緒に北小島に初上陸し、アジサシ、クロアジサシ、セグロアジサシがあんなにいるのに驚いた。 今考えると、皆さんは尖閣の海洋鳥が被害をうけない一番いい時期に渡島して、素晴らしい体験をしたと思う。」 *マラリア蚊でなくてよかった 比嘉清幸: 「皆さんが全部話してくれたので、僕の話すことはもうありませんが、最初に印象的だったのは、尖閣の島の不気味な格好ですねぇ。開洋高校の練習船で波にもまれながら水平線に島影が見えたとき、鋭く突出し荒々しく異様な地形でしょう。まるで鬼ヶ島だと思いました。 で、島に上陸したら、ヒナを抱いた海鳥がわんさいましたね。あれには驚いた。今で言えば、砂利道にまき散らした砂利を連想する位に一杯いた。 目をつぶって歩こうものなら4、5メートルで2、3羽は踏みつぶすほどだ。棒切れを地面から1メートル位の高さで勢いよく投げれば、必ず数羽はコロッといく(笑)。 ボートで案内してきた開洋高校の連中も島に上がり、喜んでカツオドリを何羽か獲ってねぇ、船に持ち帰って料理したら変な臭いがして、とても食えたもんじゃない(笑)。海鳥の卵も、肉も不味い。 魚釣島は意外でしたねぇ。もう南北小島と違って、海岸から少し上がると、木が鬱蒼としたものすごいジャングル、昼でもうす暗いほど木が繁茂している。目立つのがビロウですか。あんなにビロウが密生しているのは見たことがない。 イリオモテランやセンカクツツジと云った珍しい植物もあると聞いてましたが、ジャングルの中は岩もゴロゴロしているし、足場も悪く危険で怖かった。」 *調査の証拠 調査記念碑設置 新納: 「前の座談会で、「尖閣に調査記念碑を建てておけばよかった」の話が出たそうですが、本当ですよねぇ。同感ですねぇ。 いろいろな意味からも調査団が上陸して調査したんだという証拠を、ちゃんと残しておくべきだった。」 瑞慶覧: 「あんただけでも6回行ったでしょう。以前は自由に調査に行けた。ところが今はできない、誰も上陸させない、調査もさせない。 国が禁止しているもんだから。中国に対して気兼ねし、余計なトラブルを起こしたくないといってねぇ。尖閣へ上陸禁止措置にしている。国は全くだらしないねぇ。この措置が間違っている。だから我々は復帰前は自由に調査できましたよ。 こういう形で上陸して調査しましたよという実態をちゃんと、国民に知らせるべきだと思うねぇ。その意味からも調査した証拠になる記念碑は、建てておくべきだったと思う。」 高良: 「同感だねぇ。沖縄の政治家や国がしっかりせんといかん。」 *標本整理と生物目録づくりが課題。 瑞慶覧: 「ところで宮城元助先生は黙々とねぇ、菌類を採集しておられたが、魚釣島のジャングルで光るキノコを見つけて非常に感動していましたがねぇ。」 新納: 「私も島袋俊一先生に錆菌類を採集するように頼まれました。3種類ほど採ってきましたよ。 島袋先生の論文に、同定して学名が記載されています。そのあと、尖閣の菌類調査は、誰も手をつけていませんねぇ。 その意味からすると宮城先生の研究は草分け的ですし、採集資料は貴重だと思います。」 瑞慶覧: 「尖閣で採集したあの光るキノコが研究紀要に出てないなら、未整理だったのか、あるいは僕のウロ覚えで、ヤンバルで採集したときと取り違えているのかな。草分け的研究をされていただけに残念だ。 考えてみると、尖閣調査へ行った人は、そのあとでも大勢いますよね。琉球大学からでも相当いる、高良先生や池原先生は何回も行かれている。高良先生の標本は農学部風樹館、池原先生は理学部標本室、宮城先生のはどこですかねぇ、新納さんのもどこにあるか知らないが、皆んなバラバラに保管しているでしょうが。 このままでは大事な標本は散逸したり、破損したりするおそれがある。せめて琉球大学の調査団が採集したきた標本は、整理できるようにする意味でも、一ヶ所にまとめて、ちゃんと保管した方がいいと思う。誰がでも見ることができるようにねぇ。 あとは尖閣列島生物総目録ですよ。これはどうしても必要です。 尖閣にはどんな植物が、動物が、どんな種類のものがあるのか、一目で分かるものを」 東: 「尖閣の昆虫は100種類近く記録されていますねぇ。下謝名さんらが行ったのは71年だったかなぁ、採集したものも私が同定しました。 北小島でゲンゴロウが採れているんです。それで向こうの池は水たまりだったとも考えられますが。たしかにおっしゃるように、昆虫標本の所在もバラバラで、一ヶ所にはないですね。」 新納: 「そうねぇ、私が採集した植物標本は、理学部の標本室に保管されているが、大学を退職したあとは見てない。 こうして見ると尖閣の生物標本の保管と生物目録づくり、これは71年の「尖閣列島学術調査報告」(1971年琉球大学学術調査団団長池原貞雄教授)に網羅して整理はされていますが、そのあとの調査成果もとりまとめた総合的な目録づくりは、これからの大きな課題になると思いますねぇ。」 ────◇────◇──── 高良: 「いろいろなエピソードも飛び出し、楽しく、面白く、意義深いものだった。 53、4年ぶりに、誰がどこで、何をしていたかよく分かった(笑い)。 アホウドリを見たという新たな事実も発見された(笑い)。 また、採集した標本の整理と生物目録作りという大きな課題も提起された。 まだまだ話したいことは一杯あると思うが、この辺で終わりにしたい。 長時間、ご苦労さんでした。」 (拍手)。 文献top>> home>> |