尖閣列島実習調査に参加して
                         瑞慶覧長方

 経済界の支援で

 1953年(昭和28年)、今から53年前、私が琉球大学生物科4年の8月に夏休みを活用して八重山群島の尖閣列島(石垣市字登野城2390番地〜2393番地)へ生物調査に参加した。
 調査日程はおよそ20日間の予定で、琉球大学助教授で動物学担当の高良鉄夫先生を団長に、同じく宮城元助先生を副団長に、学生は生物学科と農学部の農学科と畜産学科の学生13名だったと記憶している。

 調査に当たった船は、当時本部町にあつた水産高校の前身である開洋高校の海洋実習船がその時期に、宮古、八重山地域に海洋実習に行くとの情報を得た。
 学校と直接交渉をしたら、条件付きでOKのサインが出たので便乗させてもらうことになった。その条件と云うのは、期間中の船の燃料、すなわち重油を琉大側が負担する。
 更に、米や缶詰め等の食糧等も独自に調達すること。開洋高校の実習船活動に迷惑や支障をきたさないようにすることで、船上では学校側や船長の指示に従うこと等であった。
 特に、応待してくれた玉城教頭先生は太っ腹の竹を割ったような男っぽい先生で、大変好印象を受けた。

 さて、その費用と燃料、食糧品等の調達は、それぞれ分担して当時繁盛していた沖縄の経済界の企業、会社を廻ってお願いすることにした。
 先ず船の燃料はカルテックスの名で有名な琉球石油(稲嶺一郎社長)にお願いし、ドラム缶入りで何本か現物提供してもらった。
 更に、米は沖縄食糧(竹内和三郎社長)、缶詰め等の食糧品はリウボウ(宮里辰彦社長)などに、又資金として現金(当時のB円軍票)も沖映の宮城嗣吉社長や、国際劇場の高良一社長、國場組の國場幸太郎社長さんらから快く寄付してもらった。
 当時は、まだ米軍占領下で軍票のB円が通貨の時代で戦後復興のスタートの時代だったが、経済界の創始者でリーダーの方々だけあって物わかりが早く気持ちよく協力して下さったことに今でも感謝している。
 ただ、学生の身分で、しかも世間知らずだったので、調査を終えて帰ってからの報告や、お礼廻りも全然してなかったのではないかと、今恥ずかしい思いで反省している。

 さて、僕の記憶では、宮古を経由して、八重山の移民地(裏石垣)米原や星野、伊野田、明石と、西表島の移民地と炭坑跡等の調査もした。
 石垣島や、西表島の分は今回は割あいして、尖閣列島を中心としたことについて記憶をたどりながら記すことにする。

 南北小島へ

 西表から、尖閣の北小島や南小島までは、わりと波もおだやかで航海中も引き縄漁でマンビキ(シイラ)やサワラ等の大型魚を釣りあげ、新鮮でおいしい刺身を腹一杯食べた。行きはひどい船酔いもせず、天候も良好で楽しい航海だった。
 尖閣列島に近づくと船上に海鳥が群をなして飛んでガアガアとうるさく鳴いている。開洋高校の教官の説明によると海鳥が群れをなして飛んでいる下の海にはたくさんのカツオや魚が群をなしている良好な漁場だと教えられた。

 この地域は暖流と寒流がぶっかる所でブランクトンも多く、それを食べる小魚やエビ類、更に小魚を食べるカツオやマグロ、更に大型のサメやカジキ等も集まってくる、すなわち食物連鎖で多くの魚が群れをなしているとの事である。

 南北小島に近づいたが、浅瀬がなく、深いところからすぐ陸地になっている。夏の暑い陽ざしで海の色も紺青で泳ぎたくなったので海に飛び込もうとしたら仲栄真船長に注意された。
 南小島と北小島はわずか200 メートル足らずだが、ここは急流で、しかも食物連鎖で大型の人食いザメも出現するとの事で、非常に危険な海域だと教えられびっくりした。

 最初の上陸地は上空は海鳥が乱舞する北小島だった。断崖絶壁の切り立った部分と傾斜した部分があったので、母船は200メートルぐらいの離れたところに留めて、私達はボートで、5、6名づつ分乗して上陸した。 南小島と違った海鳥(特にセグロアジサシ)の大群が島を覆っていた。

 島の斜面だけでなく、断崖絶壁の切り立った岩壁の穴にもセグロアジサシ等の海鳥が営巣し、海岸近くの岩場まで所せましと、海鳥がひしめきあって群をなしていた。地表面は傾斜しているところのすべてに海鳥の糞とその排泄物、更に営巣のために集められた草木の葉や、枯れ木、海草等が何層にも堆積してベッドマットのように2、3メートルの高さにフワフワとなり、その上に無造作に卵が産み落とされている。
 ヒナもかえり数百万羽もおるかと思われる程、歩けば足で踏みつぶす程のおびただしい数の卵とヒナだった。
 上空にはわが子を敵から守る為に、大きな鳴き声を立ててガアーガアーしながら攻撃してくる。
 しかも真夏の太陽が照りつけると、想像を絶する糞の悪臭でほんの十分余りで頭がおかしくなった。面白半分に2メートルぐらいの棒を振り回したら、2、3羽が落ちてきた。
 しかし悪臭と親鳥の攻撃に負けて島を退散し、船に戻った。

 そこから次の調査地へ向かった。南小島は、シロガジュマルの低木(海風の影響で)這うように岩の上に生えている。その間にカツオドリが巣(かんたんなもの)を作り、丁度ヒナを抱いている時期で親鳥が大きな嘴で攻撃している。
 嘴は長くするどく、近づくと大きな鳴き声で恐喝しながら、急におそいかかってきて、僕のズボンにかみついてズボンの下半分を引きさいてしまった。
 卵はアヒルぐらいで大きいので、食用にと思って10 個ぐらいも取っただろうか? 親鳥も5、6羽ぐらい捕獲して船に持ち帰り料理してお汁にして食べた。
 肉は硬くて、しかも脂肪分が少なく臭いも悪く、おいしくなかったので半分ぐらい捨てた。卵も淡泊で味気なく鶏卵にくらべておいしくなかった。

 このように海鳥の大群や鳥糞の悪臭に悩まされたり、ヒナの可愛さにうっとりするなど貴重な体験をした。そのときに泉川寛が撮影した何枚かの写真が残っているが、我々にとってこれらは53 年前の思い出を語る大切なものだ。

 魚釣島にて

 魚釣島は尖閣列島の中では一番大きな島で、古くは和平山やクバシマと呼ばれていたようである。島に近づくと、クバシマと呼ばれるだけあって、船から見ると殆どクバ(ビロウ)が、島一面を覆って見える。高いところは360 メートル余りもある岩山からできているので、大部遠いところからも島かげが目認された。
 島には母船を接岸できる港や海岸がなく、断崖絶壁が殆どで、周囲を見渡しても、そう簡単に上陸できるところはない。

 西北側に珊瑚礁を切り開いた掘割があり(古賀辰四郎氏によつて明治時代に開拓されたカツオ節工場への船着き場として)船をその沖合いに停泊して掘割からボートで上陸した。
 その掘割のある海岸から近い所に古賀氏の開拓時代の名ごりとして立派な石垣の建造物(防風・防潮壁)が残っていた。高さ2〜3メートル、巾も2メートルに近い広い石垣で囲まれたカツオ節工場跡には大きな釜や、貯水桶等の残骸も残っていて開拓当時の意気込みや構想の大きさがひしひしと感ずるものがあった。

 豊富な漁場で、特にカツオ漁が盛んでとりたてのカツオをすぐその工場で加工し、多くの従業員もいて繁栄しただろうが、“カッケ(脚気)”などのビタミン欠乏症の病気で倒れる人も続出し、絶海の孤島に位置しているから、(近くに畑跡がある事からして、青物などの新鮮な野菜の島内生産が試みられたのでは)、事業は一方ならぬ苦労を強いられたのが容易に推察された。

 高良鉄夫先生や宮城元助先生、新納義馬さん等の年長組は、その工場跡の仮宿泊地を拠点に調査活動も、宿泊もしたが、年少者の僕と泉川寛、田中一郎の3名は、そこから少し離れた西側の掘割の近くの浜と岩山のふもとにあった難破船の残骸を利用して小屋を作り3日間寝泊まりした。近くの山からクバの葉やマーニ(クロツグ)の葉など取ってきて屋根代わりに覆い被せて作った。

 僕達の近くの海岸はリーフ状で、ところどころに大きな石と波によるはげしい動きでプール状の穴が大小数多くあった。その池状の穴には満潮時に入った魚や、エビ、カニ等の魚貝類が豊富に入っており、干潮時にはとじこめられて簡単にバケツで捕獲できた。魚釣島の名称の由来もこれにありと歓喜したのを憶えている。勿論、我々はその魚やエビ、カニ等を料理して腹一杯食べた。
 更に、そのプールの幾つかには厚さ5、6センチ以上もあると思われる天然塩が板状に結晶化、堆積しており簡単に取り出せた。
野菜の代わりに近くの海岸と浜辺に自生しているホソバワダン(ニガナ)を採ってきて利用した。

 船から見た魚釣島はクバ山のように見えたが、島の中に入ると原生林の大木が繁茂し、イリオモテランや琉球ボウラン、マツバラン(シダ類)、オオタニワタリ等の植物が木に着生したりと、びっくりするようなジャングルで、日中でもうす暗い感じのするぐらい数多くの植物が繁茂していた。
 残念ながら、当時は植物の専門的な(学術的)知識もなく、標本づくりも不十分な為に、せっかく採集した標本類をどのようにまとめたか記憶にない。

 非常に興味があったのは園芸価値の高い、イリオモテランの大株や、ボウラン、マツバラン等をたくさん採取して、カマス袋の二袋分ぐらい持ち帰って、首里当蔵の間借先の庭で栽培したが、技術不足で2、3年程度で駄目になった。
 今考えると無知で自然破壊の張本人だったと反省している。

 3日目に船が迎えに来て帰ることになったが、台風接近で掘割近くに母船は停泊できず、反対側の東南側の断崖絶壁の真下にしかボートが入れないとの連絡が入り、大変な状況になった。
 断崖の上の木にロープをくくり付け、そこから一人づつ、数メートル下の大きな波がうねり狂っているボートに、必死の覚悟で乗りうつり母船にたどりついた。
 海上は台風接近で10メートル近くの大波で船は木の葉のように上下左右に大きく揺れ、そのままでは海中に投げ出されるので、柱に自分のお腹をくくりつけて流されないようにして、とにかく生きた心地のしない状態で何とか沖縄まで無事帰ることができた。

 当時、琉大調査団は台風で遭難したと噂されたようである。
 とにもかくにも20 日余りの日程を無事終えたが、この間、団長の高良鉄夫先生には、大変なお世話とご指導をいただいた。
 特に八重山石垣では先生の実家もあり、校長を勤められた八重山農林高校に宿泊したり、各地で先生の教え子や知人の方々にお世話になった。

 今ならば、無人島の、しかも絶海の孤島はとても危険だからと、学生の身での調査は不可能だが、高良先生の情熱や探求心のお陰で、私達が尖閣へ行けた(現在摩訶不思議なことに、中国に気兼ねして日本の国会議員や大臣でも上陸できない?))のは、とてもラッキーに思い、とても感謝しています。
 又、宮城元助先生は私の同郷(旧大里村、現南城市)の大先輩で、地味で研究熱心な先生でした。専門は公衆衛生学と特に菌類にくわしく、目立たないが学究的な先生で、魚釣島でもジャングルの中や、落葉をかき分けたりして、黙々といろいろな標本を採取されている姿を思い出す。

 53年も前の事であり、しかも事前勉強もせず、準備も不十分の中、何を調査し観察したのか、学術的な事は殆ど憶えていない。

 現今、尖閣列島が、日中間の大きな領土問題になっているが、全く不本意かつ甚だ遺憾なことである。あの当時は尖閣が日本の領土であり、しかも行政区画が八重山郡石垣市字登野城の番地であるし、誰一人疑問視するのも居なかったし、中国や台湾から物言いをつけられるとは露ほども思わなかった。
 元気な内に、もう一回尖閣に行って見たいものだ。

                                 (おわり)


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