1899年12月1日付 琉球新報記事 画像

余筆を放ちて病床に在ること既に十余日薬石功を奏し病勢日に衰え元気漸く加わるに従い俗情鬱勃として心頭に湧出し脾肉の嘆なき能わず而かも医師尚お俗務を執るを許さず乃ち徒然の余り新聞雑誌など読みて僅かに消閑に資するに過ぎず。


一日例の如く病床に横臥して日頃愛読の「東京日日新聞」「日本」「大阪朝日新聞」の新着物を閲読しつつ余念なき折柄忽ち新聞社より給使来りて同僚なる酔明君の齎したり封を開ひて見れハ内に護得久半狂君より余に宛てたる一通あり急き之を披ひて見れば書状に添へて航清道中日誌数葉より台湾淡水港客舎より去二十一日に発したるものにして誌中半狂君及ひ奈良原知事一行の消息を伝へたり。余之を一読して其一行の無事を喜ひ再読して誌中記する所の道中の見聞及ひ異郷の風俗情況並に一行の挙作に至る迄其要領を失はざるを見て大に心を強ふするに足るものあり乃ち喜の余り閲読之を久ふす。

初め奈良原知事一行か貿易視察の為福州へ渡航せんとするや其當時余は病中なりしにも拘らず頻りに同行を請ひ種々奔走する所ありしも終に許されずして止みたるは実に余か近来の一大恨事とする所なり。蓋し不肖の身を以て渡清同行を請ひしは異郷見たさの好奇心に駆られたりと雖えとも亦た実に福州貿易の情況並に人情風俗を我か紙上に報道して以て○○者の職責を尽さんか為めに外ならさりしなり。而して護得久半狂君は知事に同行すと雖とも素より俗務多忙の身なるを以て余は初め君に望を属せさりき故に余か同行を許されさるや余は已を得す一行一人たる黒川属に通信を依嘱して僅かに其心を慰めたりき。然れとも余は自から見聞視察したる所を自から書して通信し能はさる場合となりたるは余か平生の性質として心に満足し能はざる所にして今病床に呻吟しつつありても時に或は當時の不平を追懐して嘆息すること屡々なり。

然るに今半狂君の航清道中日記を見るに及で余謂らく君にして若し忙中能く這般の閑日月在らば今后の通信亦た何をか憂んやと乃ち始めて最初の不平を散したりき。

半狂君の道中日記を紙上に掲載して世人に報道するに當り聊か余か感慨を記すること如此あなかしこ。

十一月三十日午后四時病床に在りて富川瓢痴識

発端 半狂生

唐旅と云へば一両年前より思ひ立ち準備も夫相應大粧にして殆ど名誉と利益に命かけの仕事の様に思ひ做したりしは我等が未だ生れぬ先の事にも非ず桑海の変を世態なりとは云へ斯も替れば替るものかと思ふ人もや猶多からん。今回奈良原知事は公用を帯びて南清視察の道に上る我等須急の用もなけれど台湾占領以来沖縄が大陸の隣に持行かれたる心地せらるるが况して此から膨張の先鋒たるべき職業柄台湾を始め南清の地方に斥候の心覚なきは頗る手ぬかり何日と思ひし好機は不可失と方々よりの進めもあるに任せ即知事の一行に加はらんと思ひ決めしは出発の一週間程前なりき。万事手軽にと思へば用意する程の事もなく只社務の片付留主中の心遣ひなどに少しは旅立めかして彼是する中を杯せんとて懇切に給ふ方もあり。さてつ過分の希望を属せらるるの仰も聞つ孰れも忝い受くるものから其実自分の期する所は不馴の土地の失策話位の土産の頂上知事の一行及古賀氏を本役者と見立間の者に出さる我等が當然の職務として茲に日々の手帳を走り書きして旅中席暖ならざる知事の消息を報じ併て我等音信を知己の諸君に伝ふるもの也。誤字脱句転章は推読を祈る。