1899年12月3日付 琉球新報記事 画像

航清道中日誌 半狂生

十一月一二日雨

小春日のならひとは云へ日和打続暖気余りに過きて替らねは宜いかと思ひし天候は果して今朝より雨となり篠つく中を犯して本船明石丸に乗りつく暫くして奈良原知事には多くの見送人と共に乗船され午后二時前錨をあぐ。海上は転た穏かにして雑談日を送る偶々台湾総督府の田代安定氏同船して帰任するあり。着台の上は氏を尋ねんと思ひ居りし事とて刺を取かはし台湾に於て更に植物の談話を聞くの約束を為すことを得しは頗る幸なりし。

十三日雨

那覇より西行二百四十余哩午后一時此八重山港に着す島司以下知事を出向ひに出たるあれども風強く波荒れて本船に乗り移ること能はず。互に目礼して相別れり妻子を列れて上陸せし人々の如何許困難なりしかを察するに足る。滞船凡四時間午后五時出港す此夜船頗る動揺しガタンピシヤンの音しはば夢を○かせり。

那覇より牛並に小豚を積む。聞くに牛は毎便四十頭づつを基隆に送るの約あれとも常に積み取ること能はず。那覇よりの牛は基隆にて神戸牛を以て目し運賃一頭に付金九円随分の割高なれともなほ相當の利益なりと云ふ。

十四日雨

八重山より西行凡百五十哩午前九時基隆港に着す。黒岡小将の命を受け海軍の士官小蒸汽を以て知事を出迎へ小基隆の某と云ふ旅宿に入る。(以下次号)


○海外交易調査会(其筋の出版物より転載)

今回那覇港開港場に指定せられたるに就て今後海外交易場に対する方針並に取調事項等協議の為め第一協議会を九月九日午前十時より県庁内に開く。先つ委員として書記官参事官那覇首里両区長村越属石原技手七名集会し民間有志家を招集し海外貿易調査会を組織することを決議し同十三日午后二時より県庁へ集会せられんことを民間有志家に通知することし此会を終れり。時に十一時半なり十一日那覇首里両区長の報告に依り左の人名へ来る十三日午后二時より県庁へ参集すへき旨通知書を発せり。

永江徳志 中馬辰次郎 古賀辰四郎 大坪岩次郎 大峰柳吉 海江田丑之助 藤井吉次郎 小牧藤輔 藤田喜兵衛 米田惣四郎 鮫島武八郎 吉田徳蔵 肥後孫左衛門 児玉利吉 新名助次郎 矢野治右衛門 飛岡吉次郎 若松太平 池畑盛之助 有村善吉 黒松直次郎 平尾喜三郎 井之口政次郎 鮫島常太郎 普久里宗業 嘉数詠顕 山里永錫 城間恒有 鉢嶺清才 名護紹孔 饒平知高 比嘉次郎 小嶺幸之 仲村渠致嘉 糸嶺篤養 永田長恭 幸地朝瑞 渡久山朝恭 与儀幸包 糸満盛訓 松堂恵英 上運天憲信 与那覇政純 桃原良康 川平朝拒 与座嘉申 護得久朝惟 国吉真福 伊波興廷 浜崎嘉太郎 藤井平兵衛 尚順 津嘉山珍章 義村朝義 伊是名朝睦 高嶺朝教 玉城多造 上原九八郎

十一日送発せる通知状に依り十三日県庁へ集会せし人名は左の如し。

伊波興廷 米田惣四郎 普久里宗業 糸嶺篤養 国吉真福 名護紹孔 児玉利吉 藤井平兵衛 永田長恭 知念政清 小嶺幸之 比嘉次郎 嘉数詠顕 津嘉山珍章 与儀幸包 上運天憲信 糸満盛訓 仲村渠致嘉 桃原良康 与座嘉申 藤井吉次郎 永江徳志 中馬辰次郎 護得久朝惟 小牧藤輔 矢野治右衛門 浜崎嘉大郎 平尾喜八 饒平名知高 松堂恵英 城間恒有 川平朝拒 鉢嶺清才 義村朝義 渡久山朝恭 有村善吉 肥後孫左エ門 高嶺朝教 伊是名朝睦 尚順 新名助次郎 吉田徳蔵 上原亀 上原亀 玉城松 上原亀 上原九八郎

〆四十七名

(以下次号)