1899年12月5日付 琉球新報記事 画像

航清道中日誌(承前) 半狂生

基隆

港口は北に開け三面山を帯ゆ港湾深く陸地に入れとも水底浅くして汽船は港口に碇泊するのみ。小蒸気船及ひ支那型艀を以て荷客の揚卸をなせり。港の周囲は即ち一帯の市街港口を小基隆と云ひ奥を大基隆といふ。延長凡一里もあるかと思へとも既ね海岸一筋の街路あるのみにして家屋の多くは支那時代の建物を存し道路特に宜からず基隆名物の雨は今頃より来年の二三月迄殆と降り続く由にて泥土履を没し難じゆう極りなしといふ。思の外の見苦しき有様なり。沖縄物産の売捌店として大小基隆に森田の支店あり頗る人気を得たるが如し。

大基隆の停車場に至り午后四時の汽車に乗る。汽車は午前午后二回宛都合毎日四回の発車にして列車の四個若くは三個凡そ十二時間前より切符を買いに行かさねば○乗後るの恐ありと云ふ。現に其混雑名状すべからざるの有様にして夥多の荷物を送るが如きは如何ともすべからざるの感あり。今は支那時代の旧道路を改築し八堵と云ふ所より基隆河を沿て往き五六の停車場を経て午后六時台北大稲埋の停車場に着す。行程凡そ十六哩沿道は山間田野開け秋稲正に熟す山峰傾斜の地多く茶畑を見る。停車場に迎へたる海軍士官の案内を以て城内府前街朝陽号といふ旅宿に投す。市原海軍小佐山名税務官其他素と沖縄県在職の人々にして知事来訪の客頻繁なり。朝より雨を犯したる為か折角愈えかかりし再発の模様ありて早々寝に就く。夜中環節の痛を覚ゆ。


海外交易調査会(続)

県庁に於て出席せしは知事書記官参事官各課長小野仲吉村越比嘉の四属石原技手桃原雇にして島尻郡役所より斉藤郡長後藤書記中頭郡役所より朝武士郡長上野郡書記なり。

午后三時より開会知事書記官の演説あり其要領左の如し。

知事演説

本日特に諸君の来臨を煩はせしは今般那覇港が開港場と相成たるに付則ち其維持法に関し御協議を要する為めにして諸君の此炎天にも拘はらず斯く御来会ありしは実に感謝に堪へざる処なり。抑那覇港を貿易場と為す事に付ては小官に於ても去る二十五年赴任の當時より深く企望せし事にして今般幸に開港場と成りたるは誠に満足の至なり。而して尤も其開港場の儀も之れが発令前なれば二ヶ年に五万円以上に當る輸出入品有無の問題等の深く講究を要さざるべからざる事柄あるも既に開港場となりたる今日に於ては只如何にもして之を永遠に維持するの方法を講ずるより他に途なしと思考す。これ今日諸君の集会を煩したる次第なり。就ては何か纒りたる問題にても提撕して諸君の意見を伺ふべき筈なるも差し當り其準備もあらざれば先つ御参考の為め去る明治二十五年特別輸出港に関する件に付其筋に提出せし上申書の原議を朗読致し且つ之に添付せし取調書も貴覧に供すべきに付諸君に於ても其方法に付十分御意見を表示せられんことを希望す。

書記官演説

只今知事より御話ありし如く本日諸君の御来会を煩したるは那覇港の開港場となりたることに関し御協議を要し度為めにして此炎天にも拘はらず能く御来会ありたるは誠に感謝に堪へざる次第なり。抑當地海外貿易業の発達は本籍人と寄留者とを問はず又直接貿易業に従事すると否とを論ぜず等しく其の利益を蒙るべきことを疑はず随て本県を利し国家を利するは論を俟たず故に県庁は斯業の隆盛に至らんことを希ふて止まざるなり。只今知事の演説の如く事固より未定に属すれども知事は遠からず清国福州に出張の挙あらんとす。抑福州は土壌接近し交通往来久しからずとせず自今海外貿易を開始せんと欲せば先つ手を此の地に下すべきは勢の最も利便とする所なるべし。恰も好し此際知事の出張もあり此の好機会を空しくせず彼の地の商況慣習を始め貿易品の種類等諸般の事項の調査を請はば其利益決して尠少ならざるべし依て右の趣旨及び調査事項評定の手続等に付御協議を請はんが為め本日諸君の御会同を煩したる所以なり。願くは十分御意見を御陳述あらんことを

(未完)