1899年12月9日付 琉球新報記事 画像

航清道中日誌(前承) 半狂生

十六日雨

正午黒岡小将より昼餐の招きありて知事に同行す。参会の客には米国領事三井物産会社支店長田村○及び久しく福州に在留せりと云ふ中島真雄の諸氏なり。紹介するに各適當の人を以てし指示するに各剴切の事故を以てする等頗る懇篤周到主人の風新自ら人をして敬慕の情に堪へざらしむるものあり。米国領事は今回那覇港が開港したるにつき自己の事務管轄内に属したりとて知事に逢ひたき由の話あり。さて此席に加われるなりと主人は言はれたり。已に沖縄の赤塗漆器、四日紬を本国に送りたりと云ひ石油、小麦粉か沖縄に需要ありや否やを問ひ将来那覇米国間の貿易隆盛ならんことを祈るなど挨拶し中々に如才なし会食終て此を辞し更に田村氏に誘はれて三井物産会社に到る。会社は洋風の新築にして頗る壮麗なり。厦門香港の同社支店に向て添書を貰ひ且木綿布の見本を送らる是は紫花布と唱へ茶綿を以て織れるのを普通の白木綿布とにして何れも厚き無地もの也。當地の需要高年に六七十万反に上ると云へば或は沖縄にて試織するも可ならん。晩より古賀氏の宴席に赴く。

十七日小雨

朝黒岡小将に昨日の謝礼に赴く此日児玉総督地方巡回より帰府の日なりとて市中国旗を掲げたり台湾総督も中々えらきもの也と思ひぬ。明日淡水港に赴くの予定にて其の用意を為し隘為替を支那人の銀行に依頼す。目下台湾銀行も厦門支店開設の準備中なりと云ひ且厦門は日本紙幣を携帯して不便な○るべしと聞き居れども偶便りあるに依り為替試む晩田代安定氏を訪問し植物苗樹保存の方法○付有益なる談話を聞き兼て氏の所有せらるる熱帯植物の分配を致して帰る。此日より風邪全く癒え身心頗る爽快を覚ゆ。

十八日小雨

朝十時行李を収めて淡水河岸に赴き特に税関より廻し来れる小汽船に乗り淡水河を下る。河は西北に流れ幅凡そ三四百間乃至五六百間観音山の上手に至り少しく相迫り更に闢けて淡水港となり両岸の距離一哩或は二哩許り台北より此処に至る凡十哩ありと云ふ。両岸田野の間点々竹叢を以て囲へる農家あり竹編の苫を以て半円形に覆へる往来の扁舟あり。一般の風景恰も支那画を見るか如し。十一時三十分淡水港に着す。商船会社の支店長等出迎へ一行大和屋といふに入る。

淡水港

市街は河の北岸にありて道路崎嶇家屋陋隘一万弱の人口と三千余万円の輸出入を有する港たるの観なけれども東大屯山を負ひ南河を隔て観音山に対し満目の好景自然に大陸の風ありて身は未だ台湾の一港に在るを忘るるの思ひあり。港口頗る浅くして大船を入るるに便ならずと云へども千噸の船猶能く市街の河岸近く繋泊することを得と云ふ加ふるに南清の大陸と一葦相対して汽船風船の往来自然に頻繁なるあり。陸に台北を負ふて連絡を通ずるの河水無限の助力を為す。此港は実に台湾の最要港たるを失わずと云ふべし。

那覇を発して以来今日に至るまで一週日殆ど日光を見ず此港もまた基隆に同じく降雨勝にして○るること稀なりと云ふ。旅客の不愉快此上も〇〇

(完結)