1899年12月23日付 琉球新報記事 画像

渡清道中日記(続き) 半狂生
福州泛舩浦の客寓に於て

十一月二十三日晴

赤塚副領事及ひ通訳一名を案内者とし知事に同行して市中を一巡す。

厦門市

厦門島は周囲三十五里市は其の西南端にありて皷浪嶼と相対し人口凡そ三十万ありと称す即ち福建省同安県下泉州府の管轄に属せり。海岸一帯の地は概ね外国人の商店にして大厦高楼を羅列す洋海関、三井物産会社等亦た此地にあり。少しく奥に進めば支那商人の肆店更に軒を接し殆ど天日を掩ふの有様にして道幅極めて狭まく往来歩を止めて人を避くること数々なり其繁昌の状態亦た一種の異観と云ふべし。店は雑貨、海産物の外飲食物店割合に多く果物市場に至れば蕉実、柑子の類各店積で山の如く一見其産地たるを知る。或は日商某或は英商某と記すあり共に純然たる支那商人にして保護を得んが為に籍を外国に有せるものなるが如し。現に日本人の在住者は八十名内外にして日本籍にあるもの六七百名もありと云ふ。城は市の背○高台の地にありて囲ふに石壁を以てし周回凡そ一里ありと雖も頗る寥々たる有様にして軍衙あり偶々老憊せる兵士の徘徊するを見るなど嘔吐を催すの感あるのみ。

日本専管居留地の予定地は市に接し海岸に沿ひ凡そ四万坪ありと云ふ即ち虎頭山の岩下にして頗る好位地なり此虎頭山に先頃厦門騒動の一問題となりたるものの由にて土地の人は皷浪嶼の龍頭山と共に龍虎相対して厦門港を守れるなりと迷信し之を日本に与えてはならずとの念慮を懐かしきものなりと云ふ。

二十四日晴

朝上野領事に面会し更に三井物産会社に至り田崎氏を訪ふ。昼より税関に赴き黒澤氏に面会し貨物検査の模様を一見せり。因に記す上野領事は清国に在ること年久しく去る二十九年以降當地に領事たり能く官話を談じ兼て英語に通ず頗る支那の事情に精くして大に交際に勤めらるるの風あり。田崎氏は三井物産会社の支配人なり外には商船会社より派遣の見習生及ひ支那服を着たる宮仕あるのみにして一切支那人を使用して事を便ぜり。黒澤氏は久しく外国にありし人の由にて本年より當地の税関書記に雇はれ将来頗る有望の士なりと云ふ。

(未完)


海外交易調査会(続)

第八回

八回を十月三十一日午后七時より開会し之れより先第七回に於て調査終結せしを以て二十七日調査事項を印刷に附し二十八日各委員に配布し三十一日各条項に付協議せり十時に至るも終らず依て十一月一日午后一時より集会する事とし散会せり。

十一月一日

午后一時開会午後五時調査一段落を閉会せり。本日出席人名は左の如し。

副会長 岡田参事官 護得久朝惟 中馬辰次郎 小嶺幸之 鮫島常太郎 比嘉次郎 斉藤那覇区長 黒川第四課長 川口属 秦属 大山技手 石原技手

十一月七日に至り右調査事項並に知事へ調査を御依頼すべき事項を認め副会長より知事へ進達せり。

茲に於て調査会は一先つ中止し知事帰県の後今後貿易の方針を確定する事とせり。

右本会の顛末委員連署及御報告候也。

永副会長 岡田文次 委員男爵 尚順 中江徳志 嘉数詠顕 護得久朝惟 馬辰次郎 肥後孫左衛門 高嶺朝教 伊是名朝睦 普久里宗業 大坪岩次郎 大峰柳吉 古賀辰四郎 平尾喜八 名護紹孔 比嘉次郎 津嘉山珍章 渡久山朝恭 小嶺幸之 鮫島常太郎

調査会会長椿蓁一郎殿

(完末)