1899年12月23日付 琉球新報記事 画像

○依岡省三氏の来県

曩きに玉置半右衛門氏が大東島開拓の計画ある段は取敢へず報道し置きしが該開拓事業の主事依岡省三氏今回該島へ渡航の途次昨二十二日入港の回洋丸(同舩は百七十噸の帆走舩にして平素海島探検に従事する舩舶の由)より来県したり。氏の談話に依れば該島は南方八里にして最も小なる所は五六里に過ぎざるも土地平坦にして棕梠繁茂し土色は湿気を含むときは稍々黒色なれど二尺以下は赤土にして小笠原布哇等の地味と略ほ似寄たり又海岸は三十間計りの断巖所々屹立し海底の深さ七八尋なるも数箇所に艀舟其他舩舶を繋ぐべき場所もありて寄港するには不自由なしとの事にて氏は本年五月渡航の際烈風に逢ひ四五日間同所に碇泊せしも舩舶の危険は毛頭なかりしも開拓着手後はダイナマイトを以て岩石を破砕し舩舶の出入に一層利便を与ふる目論見なりと云ふ。又氏の該島開拓の目的は只管甘蔗を植附け小笠原布哇等の製糖業に做ひ最初は資本金一万五千円位を投じ如何に失敗するも三年間位は熱心に継続し充分開拓業に尽瘁する意気込なりと云ふ。氏は客月東京を出発し同二十日八丈島へ渡り人夫二十二人監督一人医者一人を募集し来りたる由にて今回の渡航は十日間程該島に滞在し帰途大島へ立寄り直に東京へ帰る由なるが當地出発は天候次第にて未だ確定せざるも開拓着手の後は本県よりも人夫募集するとの事にて少くとも三千人以上の人夫を要すると聞く。