1899年12月27日付 琉球新報記事 画像

渡清道中日記(続き) 半狂

二十五日晴

赤塚副領事日吉警部等を訪ひ支那の事情に就て聞く所あり。午後厦門に渡り市中を一巡し帰途皷浪嶼を週覧す。皷浪嶼は厦門市と相対せる一小島にして周囲三哩許り住民凡そ三千有余ありといへども専ら外国人の住宅地といふが如き姿なり。点々たる巨巌奇石辺青々たる熱帯樹木の間白堊赤瓦の楼屋を構え地形の高低を利用して巧に庭園を設けたる其有様は別天地たるの思あり特に道路は清潔なり気候は温暖なり(夏九十度を上らず冬五十度を下らずと云ふ)欧州人は夙に此地を以て清国開港場中最も健康に適する地の一なりと称せりとそ日本を始め各国領事館みな此地に置き近年富豪家にして此島に帰住し閑雅の生活を為すもの続々ありと云ふ。目下外国人の住宅一百余箇所人口凡そ三百五十あり。

此島は与所与所しくもおもはしな

むかふ外山を虎頭とそきく

此日知事は八重山艦長より晩餐の招あるに赴かる。

二十六日晴

上野領事より昼餐の招あり知事を始め一同之に赴く八重山正副艦長松木花房の両氏来会せり主客一同撮影し終て食堂に入る純粋の支那料理にして十数品珍味佳肴ならざるはなし領事館は昨年の新築にして規模頗る高荘唯に島中に於て各国領事館の魁たるのみならず実に各国に於る日本領事館中の最も美なるものなりと云ふ。晩より志信洋行と云ふ日本人の店を見る同店は厦門に於て農商務省の陳列所を預り皷浪嶼は其分店に属し重に西洋人間の雑貨を陳列せり厦門の本店も或る少数の品を除くの外未だ全く支那人の嗜好に服するが如きものなしといふ。目下厦門に於て商品の取扱をなす日本人は三井物産会社の外には此のし志信洋行あるのみ。支那貿易の振はざるを推して知るべし。

二十七日晴

領事館に至り種々の調査報告書を見る。

雑感

厦門に於る旅館は山崎屋と云ふ日本宿屋一軒外国人ホテル二軒あり。前者は宿泊料凡そ一円五十銭より二円五十銭後者は一日凡そ五円なり。外に客桟と称する支那宿屋ありて賃金頗る安価にして下等の土人は一ケ月一円五十銭の生活費を以て足るとそ○○○○○○外国人は二三ケ所の倶楽部を有し各種の遊戯物を設くること日本に於る神戸横浜にひとしく船員倶楽部と称する如きは聞くに英国領事の維持にして規模大なりと云ふにあらざれども疾病あれば僅少の費用を以て療養せしむるの設ある等注意の周到なるには何時もながら感服の外なし。

(未完)