1899年12月29日付 琉球新報記事 画像

渡清道中日記(続き) 半狂生

福州南台の客寓

十一月二十八日曇

十二時比行李を収めて海鎮号に乗る。船はドクラス会社の所有船にして福州行毎一週間一回の定期なりと云ふ凡そ百噸許りの新造船と見え清潔にして臭気なく尤も乗客を快からしむるの感あり。上等客にはボーイ一名の無賃乗船を許すなど頗る特別の待遇をなせども○等船客に対しては湯水をさへ与へざるの有様にして一段の冷遇を極むるものなり。故に支那人の如き一切の器具を用意して乗船し甚しきは自炊をなすものあるを見る。午後二時出港す小雨となりて船少し動揺せり。

二十九日小雨

午前十時頃?江の江口に入る所謂五虎門を右手に見て上ること二十余哩午后一時頃馬尾に投錨す。江は畳重せる連山の間を流れ曲折広狭恰も内海を行の思ありて高山大水実に大陸の風を見るに足る。沿岸数多の村落あり山上能く畑を開けり。馬尾は即ち汽船の碇泊地にして所々に洋風の住宅を見る豊島福州領事前島?報館主等に出迎へに来られたるありで一行特派の小蒸気船に乗り移り再ひ江を上ること十二哩許にして南台に着す。知事は領事館に赴き余は皆泛船浦の日東洋行に投ず即ち日本人の宿屋なり。六畳許なる二室に寝台を置くやら畳を敷くやらして漸く起臥の用を便ずることを得たり。気候は厦門に比し多少の寒冷なり寒暖計六十度許りと覚ゆ。

三十日晴

朝領事館に至り昼市中に出て用を便ず。

福州

福建省の主府にして人口六十余万といひ百余万といひ詳かならず総督衙門の設けあり當時許氏之に総督たり。市は城の内外に区分し城外の一体を南台と称すれども其実南台は?江を隔て一の島をなし重に外国人の居留地にして各国領事館外国商館総て此処にあり自ら城外の支那商界と区画をなすものの如し。江は架するに石橋を以て○三十六間ありて長さ凡そ百五十間内外なり江中無数の番船あり竹編の苫を半円形に掩へり所謂船を以て家とし生涯を水上に托するの一族にして女は渡し舟を職業として巧に?をあやつ○○亦た一の立奇観なり。


海外交易調査会(続)

四 運搬の方法

産地より神戸へ米を運搬するは多く外国船にして定期郵便船なれば其運搬賃甚だ○なりと云ふ。荷造は布袋入にして其一袋の斤量は凡そ百五十斤平均五斗五舛乃至六斗入とす。運賃は一袋に付香港より神戸迄二十七八銭神戸より那覇迄二十七銭五厘なり。

五 輸入額及時期

二十九年下半期 四二,九二三袋 三十年度   一一九,四三五袋

三十一年度  一七〇,三八五袋 三十二年度前半期 一〇五,七三九袋

小計 四三八,四八二袋 石数 二四一,一六五,一〇舛 代価 二〇九八.一三六円

右の表に依りて見れば年々其輸入額は増加し而して本県へ輸入する米の産地は一定せず其産地の豊凶及ひ価格に依り差異あれども今日夥く輸入するはシヤム米なり。又輸入米の砕けざるものと粉米の割合は年に依り異なれども平均するときは粉米六分にして砕けざるもの四分時として砕けざる米の多き事あり。産地に於ける収獲は六七月及九十月の二回にして本年の如き産地不作の為め其の割合日本米より高価なるとき及本邦豊作にして米価低廉なるときは本邦への輸入少なく此の場合に於ては直ちに欧州へ輸出するものの如し。輸入時期は年中間断なく大坂其他より本県へ出入する船舶の重なる荷物は米を第一とす。

六 輸入后の需要

是亦其年に依り大に差異あり。時としては首里那覇に多く時として地方に於て多く消費する事あり。那覇首里の消費額は年々非常の差異あらざれども地方は其年の甘藷の豊凶に依りて異なり甘藷不作の時は地方に多く製糖時期に亦多し。

七 直輸入の方法及利益の程度

直輸入の方法は茶と大差なく香港辺と交通開始するに至れば本県米商は渡航して充分調査を遂げ一致協力して一支店を設け充分の設計するにあらざれば到底外国人と競争するは困難なり故に利益の程度は今日詳かならず又雇船寄港船を以て運搬するときは荷物の取扱不親切にて貨物の損害多し故に其利益は甚だ少なかるべし。

二 大豆

大豆朝鮮及支那は牛荘より日本に輸入するを以て南清地方の貿易品にあらず然れども本県は十万円の輸入あるが故に渡航の際調査を為す事は必要なるべし。

二十九年下半期 一一,三七一口入 三十年度 二九,一二七口入

三十一年度 三一,三四四口入 三十二年度前半期 二四,〇五五口入

小計 九五,八九七口入 石数 四七九四八,五〇舛

代価 三八三,五八八円 一ケ年平均 一二七,八六三円