1900年1月5日付 琉球新報記事 画像

渡清道中日誌(続) 半狂生

十二月一日晴

朝来客に接し昼より盧山軒と云ふ写真屋を尋ね主人木村氏に面会す。氏は故あり福州に在留せること年久しく頗る土地の事情に精しと云ふ。帰途広東会館を見る会館は倶楽部の如きものにして各々地方商人の団体に依て就る。是即ち広東人の会館にして同治六年康国器の序文あり。曰く地は藤山の麓にあり中殿南海神広利王を祭り後閣を祭り又東西四廟を設く云々周囲凡そ二百間結構極めて壮麗にして特に石木彫刻の美なる実に目を驚す許りなり。前庭広濶にして舞殿あり其両側に酒楼を設く。後園三ケ所奇木異草を植え盆栽を列ねたる等一見広東人の富を想像せしむるものあり。

二日晴

朝古賀尾瀧の両氏と相携て轎に乗り城内に赴く。轎は幅二尺五寸長四尺程の籃輿にして内部椅子の如く長さ一丈許なる丸竹の棒二本を左右に付けて其両端を担ぐ是支那の市街は道狭く人多く往来甚不便なり。故に中以上の人は皆此轎をば用ふるが如し。城の南門に至る凡そ三十町肆店相続て一条の街路をなす。城は支那普通の石壁を以て囲ひ広大なり楼門の設あり。市街は城の内外大差なけれども全体の景晴一層厦門に勝るの観あり。多少の買物をなし帰途広資楼と云ふに入り昼食を試む楼中偶々演劇ありて見物することを得たり。舞台の有様は沖縄の芝居に彷彿たるが如く役者の衣類は頗る華美を極め筋は三国志様のものを演ぜり言語通ぜざれば素より其事実を知るに由なみれども所作又は声色に於て多少其情を解することを得て一日の旅懐を慰し夜に入りて帰宿す。

三日雨

宮城を遺して用を便せしめ?報館に至り前島氏に面会し當地の事情に就て聞く所あり氏は二十七八年戦征後當地に在住して自ら?報館主となり一週二回の?報を発刊す。発売部数凡千枚記者多くは支那人を使用す未だ甚だ盛なりと云ふにあらざれども氏は東亜協会の派遣員中島氏等と能く土地の上流社会に交際を結び日清間の協和に於て勤めつつあるは頗る多とする所なり。此日より知事日東洋行に投宿せらるる岡田なる人に面会す是は故新尾が上海貿易研究所に於て養成したる一人にして當地東文学堂と称する日本語学校の校長となり桑田氏等と共に三十余名の生徒を養育し西文学堂と相対して福州に開化分子を注入しつつあり先頃東京に派遣される留学生のうち二名は本校の出身なりと云ふ。

四日晴

豊島領事の来訪あり。更に陳白霖氏来る知事に紹介す。終日無事昨夜一首を試む。

夜半に見る夢はさてしもかはらしな

せはしき昼ぞ旅路なりけり