1900年1月13日付 琉球新報記事 画像

渡清道中日誌(続) 半狂生

九日晴

朝宮城を携て茘枝樹を見に行く途中沖縄人の墓所に立寄る。琉球廟と銘せる無数の墓碑山上山下に満てり中に重立たる人々は富川、池城、豊見城、国頭、与那原、金城、等あり。皆公務の為め異郷に永眠の人となり香花を手向くるもの数年間幾回あるかを思へば坐ろに感慨の情を起さしむ。

草はらふ人まれなりと見るに猶

あはれふのくもおもほゆる哉

即ち若干金を番人に与へ前記の人々に向て草を去り香を備へしむ道々龍眼樹の繁茂せるを見て人に聞き家に尋ねてウングンティーと云ふ所に至る見渡す限りの田畝専ら茘枝樹を植えたり。遥に望めば蔘々たる大軒枝を接して茘山遠く連なるが如し実に其豊富なるに驚く小木数株を買て帰る。午后五時重なる在留日本人より一行を招待せられたるに赴く。会場は盧氏なる人の別荘なりと云ふ結構数奇にして堂庭清浄盆栽に富ふ点燈宴を開き珍味に飽き快談を尽して九時散会す。因に記す。琉球館は廃頽して先頃大風の為め建物の半を損し在館六十余名の沖縄人専ら些少の粮銀に據りて朝夕を凌ぐと聞く。今回某氏面会を求めたれども固く執て之を拒めり。余輩其情実は察するに余りあれども其境遇憐むに堪えず。今少しく眼界を広め大勢を考へて往くに其道を以てし止まるに其法を以てせんことを勧告するもの也。