1900年2月9日付 琉球新報記事 画像

○垣の花騒動事件の顛末

去る一日垣の花騒動事件の顛末を聞くに元来湖城村旧地頭地と称する所は重もに士族の住宅にて住民の過半は漁業を以て渡世をなし居りしに曩きに兼城間切糸満村小禄間切大嶺村の漁業者間に捕魚場の区域及ひ境界の争ひを生じ裁判沙汰にまで立ち至り爾来湖城村漁業者中に糸満派大嶺派の党派を生じ一方の肩を持ちしより互に相反目し党派争ひの結果近親の間柄さへ全く交際を絶ち互に往来留めをなす有様となりき。斯くて該村中大嶺村に同意を表せし主唱者の人名は西の安座名亀、鉢嶺屋敷の儀間三良、吉川屋敷の国吉松、松尾前の国吉松等にして又糸満村の肩を持ち地頭地中勢力あるものはアダン中の国吉三良、儀間小の儀間松等にして此の両人は平素喧嘩口論抔を好まず万事平穏無事の態度を取り曩きに糸満村が勝訴となりしも全く右三良松両人が挙証陳述其の當を得たる結果なりとて反対の側に於ては之を遺恨に思ひ糸満派と指目せられたる国吉三良儀間松所有の刳舟を破壊し又或は住宅の石垣を打破すやら種々乱暴を働きしも三良松の両人は万事勘忍し居りしに去る一日は旧暦正月の二日に相當したれば家々戸々飲酒をなすは県下一般の情態なるにぞアダン中国吉松と橋口小の国吉松とは不断反対の位置に立ちしものなれど親戚の好みあるとりアダン中国吉松は橋口小の国吉松宅に於て飲酒する際松尾の前橋口小の国吉松は橋口小の国吉松の分家なるを以て年始回礼旁々香を焚く為め同家へ参りしに其の席に居合せたるアダン中国吉松は松尾前の橋口小の国吉松に向ひ汝は如何なる所用ありて此の宅へ参りしやと問ひしに松は本家なれば仏前へ香を焚く為め参りたる次第なりと答へしに汝の如き腐敗せる人間は此の宅へ足を入れることは一切出来ずと言ひ放ちたれば松は大に立腹しながら帰宅せんとて直に引き返したるにアダン中国吉松も一歩を後れて同家を辞し帰り掛けに本家なるアダン中国吉三良宅へ参り居りしに間もなく松尾前の国吉松は口笛を鳴らしながら歩行き居りしに如何なる間違にやありけん松と何にか口論を始めしに実母(国吉三良妻)が其の仲裁に這入り彼此争ふ中松は三良女房の横面を打ちしに子たる三良如何てか忍ふべき忽ち勘忍袋の緒を切りて喧嘩を打始め国吉三良三男樽四男三良も父三良の加勢をなし最早掴み合に及はんとする。折柄反対派の面々安座名亀同山東恩納三良其他隣近所に住居せる反対派の人々早くも駆附け大喧嘩に及ひたる次第なりき。又国吉三良は斯かる一椿事の起りし際には親戚なる国吉山宅に参り不在なりしが家族等が負傷せし段を聞き込み周章狼狽帰宅する一刹那に其の場に居合せたる安座名亀同山東恩納三良西の安座名亀三男山等の為め擲打せられたる次第にて一時は警官も大に制し兼ね数十名の巡査抜刀して漸く取鎮たる由に聞く。序に記す大嶺派は加害者十二名被害者十名又糸満派は加害者二十六名被害者十一名なりと云ふ。