1900年3月19日付 琉球新報記事 画像

○沖縄厦門福州間航路及ひ糖業

目下在京の奈良原沖縄県知事の談なりとて東京朝日新聞の所報に曰く。余は琉球と厦門福州との交通史上に徹して彼我特産貿易将来の発達を期せんとし乃ち客年十一月沖縄を発し台湾を経て厦門福州に航し臘末帰県せり。福州には夫の琉球館の如き既に荒涼に傾き居れり。此行余は沖縄海産の乾魚類を携へ之を福州人に甞めしめしに彼等は其珍味なるを賞美し往時沖縄との交通頻繁なりし際の食指を再ひ動かしたりと言へり、厦門福州の繁昌は日に進みて商業の中心たるの観を呈し物価至て廉にして煉瓦の如きは一箇五厘にて売買せらる、帝国が台湾に事業を起し鉄道の布設其他の工事に孜々速成を期する諸種の用材は幾んと福州より供給せられ工費の大部分は挙げて福州に吸収せらるる。今日三百年来の交通史を保持せる我琉球に思ひ及ばし主として観察せしは沖縄との間に直接の航海を開かん計画あるが為にて已に其実況を視たる今日愈沖縄全島の有力者より航海補助の請願書を提出するに至れり、今其計画の一班を語れば我新開の貿易港は二ケ年間を通して五万円の貿易額に上らざれば直に閉鎖せられん憂慮あれば国富を開発せん為めには定期航海を開き物産の輸出入を助長せんとするに在り、又彼の八十八万円の航路補助金も今回其法を改めらるべき筈なれば場合によりては其内より年々五万円宛、五箇年に二十五万円の補助を請はんとす、此案にして成効せんか沖縄有志者にて千噸以上の汽舩を購ひ直接貿易を開始するに至らん、又沖縄糖の産額は年々四十万挺に増加せり之に就き兼松氏を訪ひ其糖業論を叩き彼我を利せんとす、沖縄には今日尚ほ無人の嶋嶼あり。渋沢氏の設立せし製糖会社は十数万円の資本を卸しながら事業振はずして幾んと閉店同様の姿を現はせり、之に反して近年大東島(無人島周回六里)に糖業を開始せし人あり。其開墾者は頃日内地より数十人を移住せしめて業務に就かしめ居れり、八重山群島中にも広漠たる未開墾地あり。糖業に適せる我沖縄群島を隈なく開墾試作せば富源も寡からざるべし云々。