1900年6月23日付 琉球新報記事 画像

○尖閣列島談(私立教育会席上に於ての黒岩恒氏の演説筆記)

商船の噸数にも総噸数と云ひ登簿噸数と申事があります。総噸数と申は船の中にて風雨を凌ぎ得べき場所の容積全体をさしたもので登簿噸数とはこの容積中船員室を除き利益を生ぜざる場所を除き実際貨物を登載し得ベき場所の容積を云ふのですかかる次第故登簿噸数は一に純噸数或は課税噸数とも申します一噸は商船にては普通一百立方尺です又軍艦の方では記臆し易く云へば四十実は三十五立方尺の海水の重量を以つて一噸と致したものですから軍艦の噸数は其艦の沈水部の容積を○をにて除すれば出来るのです。商船の噸数は貨物を収容すべき場所の大小を表わしますが軍艦の噸数は大小を表すると云んよりも寧ろ戦闘力の強弱を顕はすのです何となれば同大の艦にても一は木艦一は甲鉄とでも云ふ場合には勿論後者の噸数は多いのです又十五珊砲を有するのと三十珊砲を有するのとは噸数に大なる差あるのです。閑話は休めまして是より採検旅行のお話を致します私共乗込の船は去五月三日を以つて那覇港を出帆しました此度は尖閣列島へ直航するでなく一旦八重山に寄せ石炭を積入れて更に出発する予定で御座ります此船の速力は凡八哩ですから八重山に直行すれば二百四十二里大概三十時間で達する割合です。然る処船中にて一動議が出ましたそれは今一つ無人島否疑島の探検です諸君海図を御覧になればよく分かります宮古島の南方大凡十七八哩の位置に「イキマ」と称する島が画きてあります。旧図は勿論二十八年改正の新図にも同様です宮古島の南方十七八哩といへば丁度那覇と慶良間位の距離ですから疾くより宮古島人の知り居るべき筈です。然るに未此の位置にかかる島の存在を認めたる人なき様子です或帆船此島にて飲料水を取つたとかの云ひ伝へあれども信用が置けませぬ。素り海ずに於いても疑問の範囲内にて記入してはあります現今航海者の使用して居りまする長崎厦門間の図面は一千八百九十一年英国海軍海図の覆板ですから原図其儘を用ゐ少く改正をしたのです故に此島を此処に記入したのは英人です。今少し詳しく申上げますならば此島が宮古島の南方の海上に点記してある位では私共左程に思ひませんが英国の水路誌に據りますと詳に該島の位置が示してあります。

北緯二十四度二十五分三十秒 東経百二十五度二十八分
で見ると我々に探検的好奇心が湧起したのも無理では御座りますまい。
(未完)


○山城写真師

泉崎写真師山城正擇氏は今般東京に於て新発明の写真術流行せりとの事にて伝習の為め師匠中村氏の勧誘に応じ先月初旬上京し爾来専ら師の許に在りて新技術の研修をなしつつありしが既に之を習得したれば此程師の許を辞して東京を立ち去る二十日に大坂を出発して帰郷の途に就きたる由なるが帰郷の上は早速開業し従来よりは尚一層勉強し新技術を応用し写客の愛顧に酬ゆる決心なりと聞く。