1900年6月29日付 琉球新報記事 画像

○尖閣列島談(私立教育会席上に於ての黒岩恒氏の談話筆記)

かく島の経緯度まで知れ居るに拘らず一千八百四十四年以来英米の船之を索むるもすべて見當らず其儘有耶無耶の中に今日迄海図上に島影を留め居るのですされば此度弥探検の為海図に示せる位置に本船を寄する事と相成まして本船が慶良問列島を離るるや否針路を南西四分の三西に定めました図上の測量に拠りまするとこれより宮古島の東方迄大凡百三十五英里です翌四日は実に此頃稀なる好天気でして一天雲なしと云ふ有様です宮古島の東岸なる絶崖や高台を以つて海に終りたる平安名島は明瞭に双眼鏡に入ります。これより本船はオクビ瀬の東辺を掠め去り南の方十七英里の位置に進み弥海図に点記してありまする場所に到りました所が一個の岩石だも見當りませぬ若しや極めて低平なる礁洲なるやも計り難きにより檣上に上り四方を瞰むることい致しましたけれども一向何等の眼界に落つるものもありませぬ大々失望併ながら探検の結果を水路部に報告する丈の光栄は弥本船の荷ふ所です。それより一旦石垣島に着し更に西表島船浮に寄港致し石炭積入と相成りました此度本船に積人れまする石炭は僅に十五万斤斗です。御承知の通内離島なる大倉組の炭坑は汽船の碇泊地に咫尺し桟橋の端迄石炭運搬用の鉄軌が敷設してありますから此位の石炭を本船に容るるは訳のなき事です然るに入港の少し前より険悪の天候と相成りまして台湾行の多聞丸の如き本船に先ち入港し天気を見合するの勢でして伝馬の往復出来難く空しく数日を経過することと相成りました船浮滞泊中の事は○だ〜しければ申しませぬ。東宮御慶事の御日取も近付きました梶X洋中にて奉祝致さんより探検地に着した上敬意を表したいと考へました。抑尖閣列島と申は船浮港の北方九十余英里にある二大島二小嶼の総称でして本県人は疾より此二大島を「ヨコンコバ」島と申して居ります此列島は左の略図の如く列島の西南の方に位するもの最大に之をコバ島と申ます(図略)。支那人は釣魚台と云ひ或は和平山とも申します洋名は「ホアピンス」です東北の方に在るものは列島中第二位の島でして之を「ヨコン」と申ます支那人の所謂黄尾嶼洋人の「チヤウス」です中間にある二小嶼が即尖閣嶼です。この小き島の名を列島の上に被らせて尖閣列島と申のです。偖私共乗組の船は五月九日を以つて西表を発し待ちに待ちたる御慶事當日の曙光と共に和平山の島影を舷○に見認ました。麗かなる旭光は本船の満艦飾に映し尖閣洋上に一種の光彩を添へ無限の愉快を感じました。
(未完)