無人島探訪記

 高良鐵夫

 ■南琉タイムス(10回連載)
  1950年4月25日〜5月22日
  主な所蔵先 沖縄県立図書館
           同上八重山分館
           石垣市立図書館

  ─────────────────────

 1950年の尖閣列島への単身調査の快挙は、驚きと共に痛快事であった。
 うるま新報の「尖角列島訪問記」の記事(2に掲載)に出会ったときは心ときめいた。編者もその感動を筆者に語ったら、地元八重山紙へ他の調査状況をレポートしたと知らされた。古びた新聞切抜を見せられ、感激は更に倍加した。56年前の赤茶けた紙片に「無人島探訪記」の題字が躍り出ていた。
 地元紙に10回ほど連載されていたが人目につかずのままだった。誰もが明日の糧食を探し求めた飢餓の時代に、無人の島尖閣に魅せられ、よくぞ調査レポートを残してくれた。真摯な姿勢と先見性に感心させられた。
 著者によれば、新聞に掲載されたものは、一部について抜けや省略があり不完全であると言う。当時の新聞社の不自由な状況(活版印刷のため活字不足が悩み)を考えれば、止む得ないとのことだったかもしれない。

  ───────────────────────

          無人島探訪記
                    
                    高良鐵夫


一.尖閣列島

 一日も早く尖閣列島え渡つて見たいというのが二年前からの私の切実なる希望であつた。それは同列島が生物地理学上、又海洋気象学上の要点に位置しているからである。
 それ程までに念願していた無人島えの航行がいよいよ今日実現されるのだと思うと実に感慨無量である。

 三月二十七日午后七時盛海丸(一〇トン二〇馬力)は新川沖を出発し、魚釣島を目指して北北西に進路をとつた。街の電灯は次々と姿をかくし富崎を廻るとともに電灯はすつかり姿をかくしてしまつた。懐かしい街、美わしい人々の心が胸を打つ。
 月は冴えているが波は高く屋良部半島、小浜島、西表島がほのかに見える。あれやこれやと街の文化生活を考えると行く先の無人島生活が思いやられる。
 船の揺れが次第に大きくなつてぢつとして居られない。次第に頭が重くなつて来て船に弱い者の哀れさを痛感させられてならない。
 苦しい波路に夜は明けて午前七時水平線手前に魚釣島、南小島がかすんで見える。あれが尖閣列島そして無人島かと思うと全く夢のようである。船は上つたり下つたりでひどく揺れ、船側に砕ける大波は甲板を洗い流す。

 午前十時半南小島北小島の西岸側を通過し、魚釣島の南岸に沿うて西北岸に廻航する。南小島北小島に於ける海洋鳥の群が双眼鏡に映ずる。魚釣島南岸の断崖絶壁は見ただけでもぞつとする。全島見渡す限りビロウが一杯繁茂している。

 午前十一時二十分魚釣島の西北岸に停船し、ここで上陸準備をする。海岸に廃きよらしいものが見える。船員がオーイと呼ぶと廃きよの中からオーイと答えて三人の男が向う鉢巻で出てきた。船員にきいて見るとここが数十年前古賀氏の鰹工場の跡である事がわかつた。
 そして現在は一月前より発田氏の鰹仮加工場になつている。三人の男が海岸から舟をこぎ出して来る。

 午前十一時五十分荒波との流の中に漸く小舟に乗り移る。汀線は珊瑚礁が舞台状に縁着している。
 午前十一時五十分東支那海の一無人島魚釣島に第一歩を踏む。真に痛快である。
 北緯二十五度四十六分三十秒東経百二十三度二十九分の一地点に立つて漁労に行く盛海丸を見送る。

 魚釣しまは石垣しまを去ること六十粁の位置にあり、尖閣列とう中の最大島で周囲十一粁余面積三百六十七町歩余石垣市字登野城に属している。

                 <<  1  >>