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尖閣列島採集記

多和田真淳

 琉球新報(17 回連載)
 1952 年6月29 日〜7月15 日
 主な所蔵先 沖縄県立図書館
         沖縄県公文書館
         琉球大学図書館

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著者の多和田技官は高良博士より6才年長である。
沖縄植物研究の泰斗であり沖縄薬草の父とされている。
終戦直後の尖閣調査へ多和田技官が参加したのは幸いだった。
生物相の調査に貢献したのみならず、調査の一部始終を書き綴ってくれた。高良博士と同様、文才のある著者も素晴らしい採集記を残してくれている。
もしも、彼らの記録がなければ、終戦直後の尖閣調査は、伝説の、まぼろしの調査とされ、口碑でしか知る術がなかっただろう。
彼らが貴重な記録を活写してくれたお陰で、往時の調査状況や島の様子を、窺い知ることができる。
我々を50 余年前の尖閣調査にタイムスリップさせ、迫真の追体験に導いてくれる。
「尖閣列島採集記」は素晴らしくかつ貴重な調査報告書である。

  
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               尖閣列島採集記

                               多和田真淳

1、

 尖閣列島の調査から帰つて早一カ月半以上日日の業務に追われ追われて今日まで調査報告の遅れましたことを皆様に御わび申し上げます、思い出は楽し、私は資源局へ出しました報告書と旅行日記を頼りに胴乱行脚を書きたいと思います。
 それには先ず尖閣列島とはどんな所かということを頭の中に入れて置きましよう。

 【尖閣列島の位置と面積はどうなつているか】

 地図を広げてください。
尖閣列島は東支那海の一部に散在している一小群島で石垣島から北北西約一六〇粁石油発動機船で天気のよい日約十五時間、わるい日は二〇時間以上かゝります。
 宮古島から台湾の北の端へ線を引きその昔女護ケ島といわれた夢のナンタ浜のある与那国島から北へ垂直に引いた二つの線の交叉点にあります。
 こゝは台湾の東海岸を北上する黒潮の北東転向点にもあたるので生物地理学上、海洋気象学上大変興味の深い地点であります。

 尖閣列島は魚釣島、北小島、南小島、黄尾嶼、赤尾嶼の五小島に沖北の岩、沖南の岩、飛瀬から出来上がつています。

 東の端は赤尾嶼で東けい一二四度三四分、西の端は魚釣島で東けい一二三度二八分、北の端は黄尾嶼で北緯二五度五十六分、南の端は南小島で北緯二五度四十四分に位置していることになつています。

 魚釣島の面積が三六七町二反三せ一〇歩で最高峰が三六二米、北小島二六町一反、一二九米、黄尾嶼八八町一反三せ一〇歩、一一七米となつています。

 【尖閣列島の歴史はどんなものか】

 島々に上陸して貝塚とか、城とかの跡があるか、石器や土器があるか、何でもよいとに角昔人間が住んだ證拠を一つでも探そうとしましたが全くありません。つまり此処は昔からの全くの無人島だつたのです。然し昔の人はこゝをユクン、クバ島ととなへ漁民や航海者はこれを知つていた様です。
 その昔琉球王国の遣唐使は那覇を出帆して久米島へ行き赤尾嶼、魚釣島を道しるべに支那の福州へ達した様です。

 明治十七年に古賀辰四郎氏が発見したと伝えられていますが真の発見ではありません。又一八四三年〜一八四六年英国軍艦サマラン号が東洋探検の途上魚釣島によつていますが之も同様です。
 尖閣列島は昔から琉球の一部だつたのです。然し同列島は長い年月どこの国のものやらはつきり決らなかつたのですが明治二十七八年の日清戦役の翌年勅令で日本帝国領土として八重山郡石垣町に入りました。
 今は石垣市字登野城一番地になつています。

 ∇魚釣島は明治十八年ごろから古賀辰四郎氏の手で盛に開発事業が進められましたが今はうつちやられています。

 ∇黄尾嶼は大正十年頃古賀氏によつて燐鉱採掘事業が初められましたがそろばんが合わんでやめてしまいました。

 ∇北小島の海鳥(セグロアジサシ)は同じく古賀氏によつて生物標本を作つて米国に送つていましたが明治四二年頃事業をやめています。

 これらの島々には屋敷の跡や工場の跡や水タンク等が残つています、魚釣島の工場跡はまるで小さい御城の様です。この御城の様な石垣がこいの中に今は与那国島の人々がカツオの漁期にだけ上陸してカツオ節を半がわかしするクバ( ビロウ) ぶき三むねの工場を建てています。之が私達調査団の有難い御宿になりました。


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