12.

 私はパチリパチリと矢鱈に写真機のシヤツターを切つた、此処は山の頂上であつた。眼下に総べてを見下すことが出来た。
 私は後の方を見た。そこには呼べば答えんばかりの所に今一段と高い槍のような山があつた。

 てつきり和平山と思い込んでいた私の考えは間違つていた。 しかしこの山より高い山は一つしか無い、私はこれに次山と名づけた。
 次山一帯にはナンゴクモクセイが多く、紫の実が枝もたわゝに生つていた。枝々にはバンタ系の蘭がぎつしりついていた。他の木にもぎつしりついていた。
 日が西にうすづいてたそがれ初めた、我々が西に向かつてぐんぐん歩いた。我々の歩いている左手は直ぐ断崖でその下が海になつている、即ち我々は断崖の上をしかもその縁を歩いているのだ。

 潮さいの音が聞えて来る、クバの葉ずれがそれを打ち消そうとする。 潮さいの音が聞え無くなると聞える所まで寄つて行つては前進を続け、時々断崖に出ては方向を定めて進んだ。
 森の中の日は暮れやすく遂に足元が見えなくなつた。
 我々は木の間がくれに見える星を目当にした。

 「せいては駄目だよ、こうなつたら持久戦だ、いつかは目的地に着くよ」と私は松本君にいうた。
 「先生物が見えません、懐中電燈をつけましよう」と松本君はリユツクサツクを下そうとする。
 「いやいかん、君明かりをつけたが最期、大変だよ、君等は経験が浅い、もしこういう所で電燈でもつけてごらん、同じ道をぐるぐるどうどう巡りをしてとんでもない事になるよ」
 「幸此の島には毒蛇がいない、どんなところに足をつゝこんだつていゝんだ、たゞ転んで怪我をしない様に注意し給え」と励ました。

 道が( 仮に道と名付ける) 下りになり、でこぼこだらけになつて岩に突当つたり岩をとび下りたり苦しい行軍がしばらく続いた。二三回と無く左手海岸へ下り様と木間を出て見たが、其処は断崖で我々は引返さねばならなかつた。
 腹はへるし、疲れ果てゝ二人は黙々と歩いた、私は決して松本君を先にしなかつた。山の感は私が上だと自信があつたからである。

 苦斗三時間余、眼前がかつ然と開けススキが原へ出た。
 眼下海岸にタキ火があかあかと照つている。タイ松が右往左往しているのが手に取る様に見える、オーイと叫んで懐中電燈を輪に振つて見た、オーイと返事が聞え一層タキ火が燃えさかつた。
 オーイオーイとだんだん近づいて行つた。ススキが原は草原に変り草原の中央に一条の道があつた。その道に沿うて我々は遂に泉の近くにたどりついた。
 高良氏の計いでタキ火がたかれ手分けをしてさがしていたという、私は思わず眼頭が熱くなるのを覚えた。丁度夜の九時半であつた。

 一同は私の説明するセンカクツツジに見ほれた。
 この島へ来て長高峯をきわめぬのは調査団の恥だ、限られた日時も余す所後一日だ。
 明日は是非魚釣岳( 和平山) 行を決行しようじやないか、珍らしい蘭類がどつさりあるし、諸君の御土産として人々に喜ばれるよ。
 棚原、知念、松本、新垣の諸君がこれに賛成した。

 四月十八日晴天、今日はこの島の最高峯( 棚原氏は魚釣岳と名づけた。元来和平山とは魚釣島全体の名称だから私も魚釣岳と称えた方がよいと思う) をきわめる日だ。
 八時半宿舎を出発、新垣君がにわかにはげしい歯痛におそわれ残ることになつた。
 昨夜松元君と下りた宿舎の後の泉をさかのぼることにした。誰が焼き払つたか知らんが、多分漁期の食糧を確保するためサツマイモでも植え様と計画したのであろう。
 相当面積の焼野ケ原があつてそれに一条の道らしいのがついている。昨夜の草原の中央に一条の道というのがそれで行つて見たらそれは道では無く自然に出来た排水溝であつた。

 昨夜の記憶をたどつてずんずん登り、右手の山を魚釣岳の方角へ進んで行つた。
 我々は進みながら木の枝やクバの葉を折つて帰りに役立つ目じるしにした、今日になつて昨日通つた道は暗夜の事とてずい分無駄な骨折をしたという事が分つた。
 昨日のコースはこの島で最も重要な最も楽な唯一のものであることも分つた。

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