5.

 昼食後、石垣に上つて基本丸の帰りを待つ。
 一時間、二時間、三時間終に北小島の後ろから姿を現わした。
か信号していると見る間に一人の船子がザンブと海に跳び込んで抜手を切つてやつて来た。私は皆の者に合図した。

 伝令の船子は早く準備して上船するように一同に伝えた。天幕がたたまれ、荷物がまとめられて海岸へ運ばれた。半時間もたたぬ中に風が少し強くなり突然掘割の入口がザワメキ波が立ち初めた。

 第二の伝令が海へ跳び込んだ。波が逆巻き初めた。
どんな事があつても乗船せねばと腹の中で決めていると、第二の伝令は貴殿方は食糧はありますかとやつて来た、今日一日は大丈夫だと高良氏が答えた。
 今日は波が荒くてボートは出せませんから悪しからずとの船長の伝言です。そうか明日は天気になるから明日にしようと高良氏が答えている。
 私は否それはいかん、掘割は駄目だが、東海岸は大丈夫、今日乗らんと四五日はこの島にたてこもらねばならんぞ、皆でボートをかつげばよい、わずか百米そこそこだ、明日は天気になるでしょうと土性調査の棚原氏も延期を主張した。

 万事休す、調査団の統制を乱してはならぬ、私は沈黙を守つた。二人の伝令は帰つていつた。船はアタフタと北小島の影へ隠れた。
 急に一陣の強風が吹くよと見る間に風は北に変り、黄尾嶼の方にあつた黒雲が急速度に拡がり出した。
 これはいかん暴風になる、私は避難所を探した。
 よし之だ、設営所の西南方にある洞穴、奥は水タンク辰之水が満々と清水をたゝえている所を選んだ。一行はテントを拡げ荷物を一カ所に纏めて暴風に備えるため大騒ぎを演じているらしい。
 之も教育だ、今に分かる、私はゆうゆうとタンクに腰掛け煙草を吹かし初めた。

 琉大生新垣君が、ぬれねずみになつて息せき切つて、とびこんで来た。

 「ここは大丈夫ですか、私は偵察にやられたんですが」
 「大丈夫だよここは」
 「先生は初めから大丈夫と分かつていたんですか」
 「分かつていたよ」
 「そうならそうと教えて下すつたらよいのに」
 「駄目だよ教えても、自然に分るよ」
 新垣君がとんで帰つた。

 ぬれねずみの一隊がフウフウいいながらとびこんで来た。
 またひき返した、二三回ゆききした。唇は紫色になり、歯の根をガクガク振わせながら火が欲しいといい出した。

 「君達大雨に山へ野宿した事があるか、大雨にぬれながら、火をたきつけた事があるか」と私は質問した。
 「それが出来ねば一人前の山師ではない」と私は説明した。

 私は海岸に打ち上げられた竹切を拾い集め、おしば用の大事な新聞紙をたきつけに火を起した。それから小枝がそえられ、次に大木の根や難破船の龍骨等がそえられた。
 火は煙を上げ終にパツと燃え上つた。
 「もう四五日は消えぬよ、しばらくろう城だ、決して船は来ぬよ」と私はいうた米の量が制限され食延し策が講ぜられた。雨足は早く、雨は横なぐりに洞穴の入口を過ぎて行く、海はほうこうを続け、不安が一同を押し包み、たそがれがやつて来た。

 終に夜がやつて来た、私は立つて外へ出た。風が強いため南寄の石垣や岩影の枯草はぬれていない。
 私は一かゝえの枯草(ハイシバ)を持ち帰つて草のしとねを作つた。他の連中も之にならつた。此処に石器時代ならぬ一九五二年型穴居生活が初まつた。

 翌四月十二日は終日雨、西北風、北小島が見えるだけで魚釣島は、あるかなしか、雲に包まれてはつきりしない。

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