10.

 此処では皆が尋常の状態ではなかつた。
 高良氏がノートを紛失し、ナタをも紛失した。さがしてくれと大声でどなるけれどもさがす者とていなかつた。

 断崖を登りつめた裏手は皮肉にも又断崖であつた。此の新しい断崖を下りる訳にはいかない、なぜなら下は深い海であるからだ。
 一行は右へ右へとそろそろ嶺づたいにやつと谷間へ下りる事が出来た。谷間に下りて又協議が初まつた。後は海であるし、左手は断崖右手は今下りたばかりの山だ、進退きわまるとはこのことである。

 我々は活路を見出すべく谷間を前方へそろそろ登つて行つた。
 一人々々或間隔をおいて万一前の人が誤つて石を転がした場合危険を防ぐための間隔である、今度も殿は私が承つた。
 谷を登りつめた所は小さい平地になつている、左手は断崖でとても登れないので高良氏の意見で右手を断崖に副うて峯を越そうというのである。そこは全くのジヤングルである。

 皆がジヤングル内の猪に見えた、どう言うわけか知らないが少しでも人より先になろうとする。岩の断崖は土の断崖に変つた。
 我々はこの断崖をよじて和平山の麓に出て太陽を目あてに西へ西へ進む事に決めた。
 木の根やクロツグの葉柄等を命の綱にして登つた。採集するのは私一人である。
 珍らしいのはポケツトやズボンの間に押し込む、だんだん前の連中にひきはなされた。

 オーイオーイと叫んではその声を頼りに進む、時々浮いた石を前の人がずり落したのがすさまじい音を立てゝ飛んで来る。
 木の根にぶつかつて方向転換をして谷間へ落ち込んで行く、全くひやひやさせられて命の縮まる思いだつた。
 やつとの事で山の頂上帯に出た。太陽は大部西に傾いている。

 休む暇無く前進が続けられる、此処から急に下りになり植物の様相も変つて下草類が地表を被いかくし、樹幹にはこけ類やしだ類がぎつしり着いて見事な植物景観だ。
 狩人に追われた猪の如く皆が歩くというより転がると形容した方がよい様な格構で無茶苦茶に谷間へ下りて行く、ふと私は頭上の大木を見上げた。
 樹幹から水平に出た太い枝にこれは又見事な数種の珍らしい蘭がのつかつているのではないか。

 オーイ待つてくれ今私は珍らしい蘭を見つけたからそれを採るまで待つてくれと叫んだ。
 オーイと下の方で返事があつた。
 私はリユツクサツクとプレスを下し身軽になつてするすると木に登つた、私はしばしこの蘭の一群に見とれた。リユウキユウセツコクの間に混つてバンダ系と思われる珍種がある。一寸見た所はイリオモテランだが様子が異う様にも思われる。
 ヨウラクランは小さいながら扇の様な葉を広げ桃色の花房をヨウラクの如く垂れ下げて満開している。

 私はおもむろに之等を採集した。今日は之で満足だ。
 今までの苦しみはたちまち之で吹飛んだ。私は身軽にとび下りて彼らの後を追うた。
 誰も待つてくれなかつた。オーイと叫んだらはるか下からオーイと返事があつた。左手が西である。彼らの向かつているところは東であつた、変だなと思つたが致し方なかつた。時計は五時をまわつていた。彼等が東海岸への最短距離を選んだのは無理からぬことであつた。

 クバの茂みで高良氏がやつとの事でカラスバトを射とめた、後にも先にも之が調査団唯一のカラスバト標本であつた。
 夕日が海にうすづく頃我等は東海岸へ出た。
 其処から宿舎までは半時間とはかゝらなかつた。我々はかなり疲労していた。

 夕食前に気付薬として琉球泡盛の小量が振舞われた。日頃は舌に辛い泡盛もその日だけは甘く感じた。
 就寝前松本君と明日の和平山行を約束して寝についた。

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